弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

先週の金曜稽古で、師に強い調子で言われたこと。

問いを立て直すな。

「なぜ太極拳はゆっくり動くのか」「なぜひじを曲げないようにする(=掤を張る)か」「なぜ靠は・・」「なぜ・・」武術に関する基本的な問いについての答えは何度も言葉で説明されているはずなのに、いざ問われると明瞭な説明ができない。これは教えを誰かにパスする際の障害になるばかりか、自分が教わることもまともにできていない証拠だという。
問いを自分の言葉で構成し直すという悪癖が、直でないことが、教えを「そっくりそのまま」受け取ることから遠ざけている。

6年近く師の弟子をやって、まともに教わることができない自分。今までブログをしゃあしゃあと書けていた厚顔はなんなのだ。

最近悟ったのは、知らなかったことは免罪符でなく、過失であること。無知ゆえの誤りは「知らなかったんだから仕方ない」ではなく「知らなくて申し訳なかった」と謝罪すべきものだ。

 ここ数年で「自分とは何か」「何と戦うのが戦いなのか」が徐々に把握できてきて、それは天と地の間に人たる自分がすんなり収まった安定を、つまり健康を私に与えてくれているのだが、それは「ただ法(教え)の恩恵を受けているのであって、法を継いでいるのではない」と師は仰る。(言葉の問題があるにもかかわらず教えの恩恵が得られているのは、密儀や俳味の検討といった「不立文字」系の稽古がなんとか成立しているからだろうか?)

言われても、再び間違えない自信が全然ないのだ。私の不出来と不誠実とを申し訳なく思う。

稽古メモ(俳句編)

4月から俳句を始めて半年経った。
当初はイージーな気分で臨んでいたが、師に取り組み方から厳しく指導され、一方であれこれと良い句を紹介されたことが導火線となって興味に火がつき、気がついたらすっかりはまっていた。

子供空手で師が「型は覚えて終わりじゃない。青帯には青帯の、茶帯には茶帯の型のやり方があるよ」と生徒を諭していたけれど、俳句も同じで、よくできた句は一読しても印象に残るが、体験や知識を重ねてこちらの鑑賞眼が上がることで新たな発見と味わいがある。
俳句そのものの歴史や文化的背景、句ごとの背景や作者の境涯など、知れば知るほど世界が広がるのでいきおいのめり込む事となる。こういう時の努力はほぼ娯楽だ。

ただ、稽古の一環として作句しろと言われた目的は「対象をよく見る」ことなので、いくら勉強が面白くても、そこを忘れてはいけないとも自戒している。同じ俳句への取り組みでも、興味の対象としての側面と、稽古としての側面とは分けて考えないとだ。

稽古としての側面とは
・よく見る。
・「俳(ぶらぶらする)」を実践する。
・習作と添削を通して師の考え方を知る。
・社交術としての作句(連句)。

稽古という性質上、私には句会はいつも少し緊張する場だけれど、プライベートで興味を同じくする人と俳句談義をしていると時を忘れる。俳句を通して新たに深まる人間関係があるのはありがたい副産物だ。

よくできた17文字は日本語の至宝と思うので、自作の句も含めて素晴らしい表現に出会うべく、興味のほとばしるまま進んでゆく所存です。

武術はジャズかもしれない

(PCで見たとき非常に重いと教えてくださった方がいて、1ページあたりの記事数を半分にしました。ご指摘ありがとうございました。)

先日師に「礼や師弟という概念を理解しておらず、重要な師の話を遮って自分の関心のあることだけを聞こうとする」と言われ、考えていたところ、この問題はジャズのセッションに似ていると思いつく。日野皓正の体罰がニュースになったが、彼がソロを終えない教え子に怒ったのも「おまえはジャズという概念を理解してない!」ということだったと思う(日野はコメントで、殴打したドラマーについて「父と息子のような関係で、ほかの生徒には絶対に手を上げない」と言っている)。

セッションという名の「絡み」がジャズの真骨頂だという。そこでは合わせられることは達成目標でなく参加要件である。すると冒頭の師の叱責は「どうすれば相手の音が聴けるか」という、セッションの技法と共通するものだとわかる。

私はジャズは門外漢だけれど、ジャズマンも我々も同じことをしているのだ。「直」である、礼を払う、そうしたことの先には「音楽」を創り出すという途方もない楽しみが待っていそうだ。ビンタを食らった中学生は、こっちの高みに来るんだろ、という「お父さん」の意を汲みとっただろうか。