弟子のSです

武術の稽古日誌

武術はジャズかもしれない

(PCで見たとき非常に重いと教えてくださった方がいて、1ページあたりの記事数を半分にしました。ご指摘ありがとうございました。)

先日師に「礼や師弟という概念を理解しておらず、重要な師の話を遮って自分の関心のあることだけを聞こうとする」と言われ、考えていたところ、この問題はジャズのセッションに似ていると思いつく。日野皓正の体罰がニュースになったが、彼がソロを終えない教え子に怒ったのも「おまえはジャズという概念を理解してない!」ということだったと思う(日野はコメントで、殴打したドラマーについて「父と息子のような関係で、ほかの生徒には絶対に手を上げない」と言っている)。

セッションという名の「絡み」がジャズの真骨頂だという。そこでは合わせられることは達成目標でなく参加要件である。すると冒頭の師の叱責は「どうすれば相手の音が聴けるか」という、セッションの技法と共通するものだとわかる。

私はジャズは門外漢だけれど、ジャズマンも我々も同じことをしているのだ。「直」である、礼を払う、そうしたことの先には「音楽」を創り出すという途方もない楽しみが待っていそうだ。ビンタを食らった中学生は、こっちの高みに来るんだろ、という「お父さん」の意を汲みとっただろうか。

一人稽古メモ

中二病と師にいわれる私は自意識対策に俳句を詠んでいる。落ち着いて順序よく考えれば詠む対象と自分とは同じものなので(むずかしい言葉で「梵我一如」という)、対象に対して直(ちょく)であれば、それは自意識なんて上っ面のものでない、本来の自分が詠んだ句、すなわち良句になるはずだ。
太極拳では動作の際、滑らかな動きを阻害するストッパーになっているものを、爪先の角度を変えたり手のひらを翻すことであらかじめ外してやる。水が流れるよう蛇口をひねってやるのだ。そのためにはまずストッパーに気づけないといけない。自意識もまた対象に直であることを阻むストッパーだ。何をするのでも、自らを狭めるものに違和感を覚えないうちはろくな者にはなれないと思うのでがんばる。
仕事用にホームページを持っているので、賑やかしにもなるからと、そこに自作の俳句を載せることにした。実名のサイトなのでリンクが貼れないのが残念だ。

・ゲーム「アンダーテール」をYouTubeで見始めた。師の薦める意図がわからないのでとりあえず見る。私はRPGというものをしたことがないが、人生をふたりぶん生きるようなものなのか?

カスタネダ読み終えた

カスタネダドン・ファン本6冊を読了。終わってみれば付箋でいっぱい。神秘的だ、トリッピーだと受け取られ、もてはやされたシリーズらしいが、私にはごく実践的・普遍的な内容に思えた(巻によります)。
「呪術」という言葉が交霊とかその筋の印象を与えるけれど、師ドン・ファンカスタネダに伝えようとするのは人間の認識の多様性とでもいったもの。

私の便宜をはかるために、ドン・ファンは折にふれて自分の知識に名前をつけようとした。彼自身はナワーリズムという名称がいちばん適当だと思っていたが、このことばがやや曖昧すぎることも承知していた。ただ "知識“ と呼ぶのでは漠然としているし、"魔法" といってしまうのも問題がある。"意志の統御" では抽象的すぎるし、"全面的自由の探究“ では長すぎるうえに比喩的な色合いが強くなってしまう。結局、これ以上適切なことばが見つからないとあって、完全に正確とはいえないと認めながらも、彼は "呪術" ということばを使うことに決めたのだった。(『沈黙の力』) 

求心力あるドン・ファンの教えにカスタネダはのめり込んでいくんだけど、描写される、彼の呪術との距離感は私にとって大変リアルな、身に覚えのあるものだった。
しかし巻が進むにつれ修行者としてのドン・ファンの来歴が語られ、その師やそのまた師の人柄と来歴も語られ・・。これはカスタネダの物語というより、文字通り、ドン・ファンの教えを「聞く」物語なのだと思う。一個人の成果の話ではない、それは必要だが重要ではない、ということ自体が教えでもあろう。

読んだ6冊のうち5冊は真崎義博訳だが、初期四部作の最終巻である『Tales of Power』だけ別の訳者のものを読んだ(『未知の次元』)ので、真崎訳による『力の話』も読んでみたい。真崎訳のカルロス(カスタネダ)の方がキュートなのです。読み終わってしまい、これがほんとのカル「ロス」だ・・。すいません・・。