弟子のSです

武術の稽古日誌

「武」ってなんだろう

諸説あるようだが、「武」という漢字は「戈(ほこ)+止(足)」で、戈を持って進む人を表しているという。戈というのは画像検索すると長い柄のついた刃物であり、それを持つ人が何をしようとしているかと言えば、ビジュアル的に十中八九、戦おうとしているのである。戦い。それが「武」の字から連想される一般的なイメージだろう。
「武」とは何かを明らかにするために、この字に象形されるところの人物が「何と」「何のために」戦うかを今日は考えてみたい。

1 「武」は何と戦うか

武術は護身術であり、学習者は攻撃に対して身を守る術を日々探究しているわけだが、その「攻撃」について、私は「歩いているところに突っ込んできた軽トラ」をイメージすることが多い。
矢でも弾でも刃物でも拳でもダンプでも電車でも言い換え可能だが、要は「それを避けることに迷う余地のないもの」である。「軽トラ」なのはなんとなく日常感があるからだと思う。

散歩してたらトラックが突っ込んできた。そのときそれが社会的に正当か不当かとか、こんなことになって悲しいとか受け入れられないとか、判断や屈託している暇などありはしない。大抵の人にとってすることは唯一、死なないように何らかの策をとることだけだろう。最悪の事態を避ける、その対処が武術である。だから「武術は実務」なのだ。武術は、突っ込んできた軽トラにどう対処するかという実務である。
その対処のシンボルが「武」の文字における「戈」であって、つまり「武」とは、命を奪いにくるものに対して「戈をとる(=無策でいない)」という意思表明である。

突っ込んできた軽トラ、という状況において「命を奪いにくるもの」とは本質的に何であろうか。
状況は次の3つのフェーズに分けられる。

①突っ込んでくる前 ②突っ込んできた時 ③突っ込んできた後

各フェーズにより対処の内容は変化する。たとえば①では「その状況を未然に防ぐためにどうするか」、②では「避けるためにどうするか・よりダメージの少ない当たり方は何か」、当たってしまったら、③「受け身など、後のダメージを軽くするためにどうするか」・・等々。

わかるように、ここで対峙する事物は軽トラに限らない。「軽トラ」が処するべき直接の事物になるのは②のフェーズにおいてのみで、①では「見通しの悪い道」や「動きにくい服装」などが対象の事物になろうし、③では「倒れこむ路面」や「周囲の人」などが対象になろう。

「軽トラ」は危機的状況のなかの1アイテムにすぎず、それ自体は敵としての性質をもたない。「道」「服装」「路面」「人」もそうである。雑に扱えば仇になりうる、ということだ。
つまり命を奪いにくるのは個々の事物でなく、時々刻々と変化する状況そのものである。武術が制するべきは「状況」であって「アイテム」ではない。

2 それは本当に戦うべきものか

「武」の戦う対象は「それを避けることに迷う余地のないもの」「命を奪いにくるもの」と書いたが、咄嗟の場合であれば身体感覚がそれを正しく見抜く。熱いやかんに触れた手を離すのにためらう人はいない。
しかしそうでない場合、つまり意識が出張る余裕が少しでもある場合、脅威はしばしば見誤られる。心に脅威と感じられるものが実は救いの手だったり、逆に、有頂天にさせられるものが身を滅ぼすものだったりするのはよくあることだ。

物理的な凶器なら間違えようがないが、実生活では、これは本当に「軽トラが突っ込んできた」状況なのか?ということから省みるべき場合が多々ある。自分を含めて、人間は放っておくと、身体感覚より頭(心・意識)が優位になりがちなものだからだ。

当たり前のことだが、状況に対処するためには、状況を把握することが必須である。しかるに人間の頭は「自分を生かすもの」と「殺すもの」をしばしば見誤る。
人間は意識でもって社会を作り上げ、社会的存在として生きている以上、意識を抜きにして(身体感覚のみで)生きるのは現実的に不可能だから、ここが一番むずかしいところだが、いわゆる敵味方の判断にあたっては、自分の中の「これは絶対」という思いをまず疑う習慣をつけることだと思う。思い込む自分、明晰の罠にはまる自分こそが仇になるからだ。
そうした意味では、人が根本的に一戦交えねばならないのは「自分自身」だとも言える。実際、修業が進むほどに、そのことを実感する学習者は多いのではなかろうか。

3 「戈」とは何か

ここまで、武とは「危機的状況」に処するために「戈をとる」ことだと書いてきた。「戈」こそが武を武たらしめるシンボルである。
「戈」とは武器のことだが、何がしか特定のアイテムを指すのだろうか。そうではないだろう。後述するが、武は自由と切り離せないものだ。特定のアイテムに頼らなければならないものは武ではない。だって、それがなければ戦えないということは、そのアイテムに縛られていることだからだ。
丸腰の、丸裸の私が、使えるものは何でも使う。早い話が、戈を戈にするのは「智恵」である。稽古で繰り返し言われる「武術は個別の技術でなく、そこに通底する考え方」とはそのことだろう。万物が雑に扱えば仇になりうるし、智恵を使えば友になりうる。だから自分を含めた万物に礼を払おうというのだ。

4 「武」は何のために戦うか

「命を奪いにくるものに無策でいない」「最悪の事態を避けるために戈をとる」などの表現でもって「武」を論じてきたが、ここでさらに「なぜ」そうするのかを考える。武は何を動機とし、何を守ろうとして戦うのだろう。すなわち、「護身」とは何なのだろう。

最悪の事態を避けるというが、それは生物の個体としての死を指すのだろうか。
いつものやり方として対偶を考えてみる。仮に「死」を最悪の事態としたとき、その対偶は「不死」だ。人間は全員が全員「生物としての不死」を望んでいるのだろうか。私にかぎって言えば、それは否だ。終末医療で言えば「苦しいだけの延命は望まない」。一羽でも白いカラスがいれば「カラスは黒い」という命題は崩れるから、私という一例をもってして「最悪の事態とは生物的な死である」が真でないことは証された。命を守るというのは、命があるということと同義ではない。

武術が滅びると憂いている師には拡大解釈しすぎだと叱られそうだが、私は武術遍在論者というか、この世に存在する生物は皆そのままで武術をしていて、生きているということは、それが「少なくとも今この瞬間までは」うまくいっている、その適応の証だと考えている。花は咲ける環境にしか咲かないということだ。どうにも生きるのが下手、つらくて苦しくてたまらないという人も、現時点でどうにか死なずに生きているというのは、その人が個人としても人類の一員としてもそこまで淘汰されずに来たことの証で、その「どうにか」が、意識される・されないに関わらず「武」なのだと思う。(ただし次の瞬間はわからない。既に書いたように、刻々と状況は変化するからだ。)

歌を歌うのが歌とはかぎらないという歌があるが、武術している・していないという個々人の自覚にかかわらず、受精してから生命を終えるまで個体が生きていくこと自体が「武」なのだともいえるし、それは個でなくて社会とか国家とか人類とか、時間的・空間的にスケールアップしたレベルにおいても然りだ。
適応というものが進化の意思なのか結果なのかわからないが、つまり「武」が望むことは、個体の意識を超えたものでありつつ、個体の望むことなのである。それは「生きるための順境を用意する」ということだ。それが護身の本質だと私は思う。だから(自分より)武術の要求に耳を澄ませよ、というのである。

人それぞれ好みはあろうが、不死は少なくとも私の「順境」にとって必須ではない。では何が必須かといえば「自由であること」「自在であること」である。それはどういうことかと言葉にしようとするとさらに稿を重ねることになるのでここでは措くが、たとえば、「武」は負けられない戦いではあるけれど、ダメなら死ぬ、でいいではないか、それって負けなの? という感じでもあるのだ。自由とは、自在であるとは、「ねばならない」が一切無いということだ。
私はいつなんどき、どこのフェーズを切り取っても、金太郎飴のように「武(戈を持って進む人)」でいるだけだろう。つまり生きていくだけだ。耳を澄ませながら運ばれていく。命を預け、守られて、気持ちの良いものである。

近況

このところ同居の実母の日常生活にやや介助が必要になり、介護保険を申請したり居室を整えたり、しかるべき知識を仕入れたりしかるべき人に相談したりとせわしくしている。人を相手のことなので精一杯楽しくやっていきたいし、それができなきゃ今までの稽古は何だったのかということになるだろう。その気になれば、介護のある生活というのは、発見と出会いの機会にみちている。

実技では、目下、型稽古のためのオリジナルの型をつくるという課題に取り組んでいるところ。私独自の型をつくるというのは、ひとつには、母の見守りのため今後家にいる時間が長くなるだろう私が、道場を離れても稽古できるようにという師の配慮がある。

用事に追われていると頭(心・気持ち)が先行し、徒歩でも自転車でも、少しでも早く早くと前のめりの格好になりがち。だが歳をとればとるほど、頭でなく身体のペースで動くことが肝要になる。身体にできることが、つまりは「自分のできること」だからだ。

私の型は、情で煮立った頭を「心は自分ではない」とわからせて、「では自分とはなんなのか?」と武術の本来の問いに立ち返らせてくれるものにしたい。

稽古メモ

最近「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉を耳にする。人間のAIに対する優位性が逆転する時点のことをいうのだそうだ。

たとえばAlphaGoはディープ・ラーニングという学習能力を獲得し人間の棋力をあっさり抜き去ってしまった。「手筋」より「学び方」を身に付けたのである。私も武術は「技」より「考え方」と指導されて久しいが、成長速度では完全にAIに遅れをとっている。

言いたいのは私がAlphaGoより遅咲きだということでは勿論なく、このまま人間の脳を模して進化してゆくと遠からずAIが「意識」を持つ日が来るかもしれないらしいのだ。映画や小説みたいな話だがリアリティがある。

師が過日、ツイッターで「人間が恐れているのはAIに負かされることではなく、人間もAIと同じものにすぎないと分かることなのかもしれない」と呟かれていたが、人間の「意識」も神経細胞を介した脳の挙動であってみれば、ある意味において「人間とAIは同じ」であるとは当然言えると思う。
(思えば自らの帰属を「霊長」類と呼ぶほどに人間はその優位性に自信満々だが、自信を持つところをちょっと間違えてはいまいか。人間とAIは「同じであり、同じでない」。武術をやっているとこうした物言いが不自然でなくなる。)

何はともあれ、我々が「優位」感覚を抱くに足るような、実体としての「主体」はない、というのが最近の私の考えだ。「主体」という言葉は発した途端に世界を彼我に分離する。しかし(少なくとも太極の世界観において)彼我は別たれていない。我々は感覚の主人だから意識においては当然に自分が主体だが、それは「思い過ごし」だ。

太極拳を行うにあたり、「主体」やら「自己の優位性」といった概念をどう捉えているかはストレートに套路や技に反映されるから、ここはとても大事なところである。
たとえば太極拳では動作の目的に応じて自分の身体を滑車やジャッキといった「無機物」にトランスフォームするけれど、私(主体)がその無機物(客体)を「扱う」のでは太極拳の動きにならない。投げ技をかけようというときも、私(主体)が相手(客体)を「投げる」のでは太極拳の技にならない。

太極拳の動きは、自分の内外の「客体(価値観が加われば”異物”ともいう)」と「同期」しないとできない。というか、「主体」というものは幻想なのだ、と心底理解しないかぎりは嘘っこの同期しかできないだろう。

師から太極拳を習い始めて9年経つ。その間に教わる内容はかなり変化した。それは徐々にというより、ある時を境に、という変化の仕方だったように思うけれど、ここに来てまた新たなステージに踏み出しつつある。「動かす主体をなくすこと、なぜって元々ないんだから」みたいな感じに。動かす何かは厳然としてあるのだが、それは「私」ではない。

足は手につれ手は足につれ、というように主従が渾然とした動きを長く稽古してきたが、その「何かが何かをつれていく」動作を見えなくするという。書でいえば、因果の明確な楷書を研鑽した上で、楷書を「書きながら書くな」、それが草書だ、と言われているようなものだ。

むずかしい。武術を始めてからというもの、知力体力ともにスペック以上の課題にばかり取り組んでる気がする…。こうした学び方は人間独特、てか「弟子ならでは」かもしれない。