報酬系の是非
稽古メモ
私の首〜背中はいつなんどきでもガチガチに凝っている。もっぱらケガの時にお世話になっていた鍼灸師に、先日思いついて施術してもらってみた。そのことを書いたツイート(↓)を師が覚えていてくださって、昨日の稽古のイントロはそこからだった。
鍼も打ったしお灸も。ぽっかぽか。「のり太郎(S)さんは反応はいいんだ・・いいんだけど、戻っちゃうんだよなぁ・・」。硬い、というのは脳の問題なんだそうだ。無意識のうちにも緊張して、いつも「あがってる」状態なんだって。鍼で脳の緊張がゆるむのは、そのあと猛烈な睡魔に襲われるからわかる。ふだん冷たい手もぽかぽかと温かくなる。脳の緊張を自在にゆるめられるようになれば、私の、冬の頑固な冷え性も治るのかもしれない。
ユング研究者の林道義氏は、ユングの「人間の心というのは直接的にはすべてイメージである」という言葉から、イメージに働きかけると心ばかりか自律神経にまで影響を及ぼすことができると書いている。たとえば氏は、心臓からの血液が手に流れ込むのをイメージすることで、実際に手を温かくすることができるそうだ。
冷え性はともかくとしても、鍼などの助けを借りずに、自分で「脳を自在にゆるめられるようになる」とは、チャレンジしがいのある課題だと思う。
師は私のツイートを引き、Sさんのそうした頑固なところに働きかけてきたが、遊行ではどうもうまくいかないので、らしくありませんが、今日は苦行っぽいことやります、と仰った。
遊行とは楽しさの中から学ぶこと、苦行とは苦しさの中から学ぶこと。相手とギリギリのところで押し合って、しかし押し切らずに、耐える状態をキープするという稽古をした(おかげで今日は久しぶりに筋肉痛がひどい)。
苦しさの先に得られるものとは何だろう。マンツーマンで指導を受けていた頃も、フラフラになるまでひたすら組手するという稽古を何度かしたことがあったが、師はこうした稽古から何を私に伝えようとしているのだろう。一夜明けてそれを考えているけれど、わからない。以下、考察。
・押し合い続ける、組手し続けるのに必要な、力の「コントロール」を身に付けること? そうした術は、体力を使い切った先に見えてくるだろうから。
・押し合い続け、組手し続けたあとの「リリース」の感覚を得ること?
イントロの「遊行ではどうもうまくいかない」が引っかかる。遊びでは、私は変われないのかな・・うーん。
追求は解放なこと
これだけやっていてとぼけるな、と言われるのだが、たとえば、武術的な力量についての相対的な話、誰と誰のどちらが上か、みたいな話が私にはどうも飲み込みにくい。師の頭の中では、武術家としての視点から、ご自分が誰より上で誰より下かという位置付けが明確にあるようだ。
師「なんでわからないの。あなたは赤ちゃんや老人を倒すために稽古しているのですか?」
こうした質問に答えられないのは、「武術的な力量」が「殺傷能力・倒す能力」を指すのか、それとも「生き残り能力(サバイバビリティ)」を指すのかがわからないからだと思う。たとえば赤ちゃんなど殺傷能力はゼロでも、「思わず周囲が守りたくなる可愛さ」など優秀なサバイバビリティを備えていると言えよう。武術的力量でいえば私より上と言えなくもない気がする。赤ちゃんは「倒そうと思われない」「大切にされる」点において弱いが強いのだ。
「武術的な力量」とは?「相手を倒す」とは?「生き残りやすさ」とは?「死ににくさ」とは?・・なにかと定義が自分の中で曖昧なので、武術において誰が誰より優れているか、または劣っているかの判定ができない。判定しようとする意義もわからない。ヘビを100匹木箱に入れて戦わせ、残った1匹はあとの99匹より死ににくさにおいて勝ると言えようが、自分がその1匹になりたくて、あるいはなるたけ最後の方に残りたくて向上心を燃やしているとも思えない。ヘビにはむしろ木箱をかじれと言いたい。
仮の結論としては、修行者である以上、力量は「武術に近いか遠いか」「見えている領域(世界)の違い」で測るということだと思う。見えている領域の差が武術的力量の差になる。
師がいつかツイッターで書かれていたが「この世に信頼できる武術など存在しない」。しかし信頼できる武術は存在しなくとも、信頼できないまずい武術というのは存在する。それは理解が進むほどに見えてくる。師がふだん私に仰ることが「それは武術ではない」「それは太極拳ではない」とほとんど否定形なのはそのせいだ。私に未だ見えない領域が師には見えている、その点において師は私の師なのである。
このように、修行においては「定義地獄」「意味地獄」と言えるほどに理を突き詰めることになるが、しかし武術の面白さの一つは、意味を一心に考えても考えても、それで囚われて不自由かというとそんなことはなく、意味の本質に迫るなかでむしろ自由であることです。