弟子のSです

武術の稽古日誌

はてなデビュー

無事に過去記事のインポートを終え、お引越し完了。

とりあえず見た目だけ整えたので、細かいところはまだこれから。デフォルトで本文の文字が大きく、スペースは小さくて、今までみたいに長くは書けない仕様だが、それがかえっていいかも。

稽古メモ+ブログ引越しのおしらせ

先日、塔手のかたちから、自分の手と接している相手の手を共働して床に着ける(≒崩す)という稽古をした。同じ捨己従人でも、従来は相手と「ぶつからない」という否定形だったが、その稽古からは相手と「同じになる」「同じである」という別種のニュアンスを感じた。

相手と自分が同じであること。境界がないこと。「あなたの行きたい方向は、私の行きたい方向でもある」。これなら怨恨を残すどころではないだろう。戦闘状態がなく、双方に違和感のない着地点があるだけだから。おもしろいな〜。

 

さてこのブログですが、サービスを受けているサーバーの契約をこのたび仕事の都合で改めることになり、近々閉鎖しなければならないことになりました。

 

師の言葉などを確認のため時々検索をかける以外、ほとんど記事を読み返すことがないので、消えるならまあ仕方ない、データが自分のPCに残るならそれでいいか、ぐらいの気持ちでいた。しかし師によれば、このブログは「どうしようもなかった人間でもここまで成長できる」証しとなる記録だとのこと。そう言われると、個人的には恥でしかない過去の記録も、公的な性質を帯びたもののように思えてくる。なので、どこかの無料ブログサービスに置き場を探すことにする。

「成長」という言葉が師の口から出てきたことも意外だった。私は師の中で「何年やってもダメな人」に分類されていると思っていたから。

 

師がどう思われているかはさておき、弟子として武術を教えていただいて5年、私はすごく変わった。何がというと、意識が。それもそのはずで、直近のコメント返信にも書いたように、武術は「独善に走りがちな我から離れ、自在に扱えるように」、物事を武術の視点から眺めるように、意識を改めることを徹底的に要求するからだ。

 

以前どこかで読んだ言葉に「意識が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば生活が変わる」みたいなのがあったけど、いまだ途上ながら5年分だけ私の意識は変わり、その表れとして生活が変わった。それはもちろん良い方向に、だ。

 

まあ人生には様々な局面があるので未来がどうなるかはわからないが、何が起きても私には師から受け取った(受け取りかけている)太極拳という筏がある、と心強く思う。「筏」とは仏教で、煩悩や無明の川を渡る「方便」の暗喩。

 

いまある疑問の答を過去の在庫のパーツから探す習慣をつけなさい。もうテキストは飽和している。

 

といつか言われたが、最近の私は以前ほどがつがつと答えを貪ることもない。私は答えを渡されている。答えはここに(胸に手を当てる)あるのだ。「わからないことがある」ということをも含めて、わかる、ということは、本当にかけがえがない。静かで、確かだ。

一生涯、私は我から放たれず、間違い続けるのかもしれない。でもやることはきまっている。

 

というわけで、これから新たなブログサービスを探しに行きます。ごくまれにブックマークしてくださっている奇特な方がいるので、引越し先が決まれば告知しますので、どうぞブックマークし直してやってください。

稽古メモ(俳句編)

前々回の記事に「Sさんは遊行ではどうもうまくいかない」と師に言われたと書いたが、何がうまくいかないのですか、と尋ねると「こんな調子では、あなたが”我”から自由になるには、懸命にやっても10年かかる」とのこと。

「我」から自由にならないとなぜ困るかについては別稿にゆずるとして、とにかく武術の修行とは、「我」から放たれ、「らしさ」を確立しようと進んでいくものだ。

俳句はそのためのよい稽古になるはず。「我」が出張っては、つまり独りよがりでは伝わらないし、「らしさ」がなければ、そもそも創作する意味がないからだ。

自分で作ってみるとわかるけれど、思いや感じをよく表現するには、画家が制作中にカンバスから離れて絵を確かめてみるように、没入しがちな「我」とは別の視点から句を眺める癖をつける必要がある(そうしないスタイルもあると思うが)。客観視というスクリーニングを経ない句は、私の場合、あとから読むとどうも「痛い」のです。

本を読んだり詳しい人に尋ねると、芭蕉にせよ子規にせよ寺山修司にせよ、俳人は本来の気質としては我の強い人が多いようだ。しかし名句とよばれるものを鑑賞すると、その「我」が「普遍性」にみごとに昇華している。たとえば

行 く 春 や 鳥 啼 き 魚 の 目 は な み だ

この句に芭蕉はいないけれど芭蕉の「感じ」はある(それしかない、というか)。別離の悲しみ、それが伝わるのは共鳴する要素が私の中にあるからだ。言葉遣いの工夫によって、芭蕉の我と私の我が句を介してつながる。これが師の仰る「術」の本質かと思う。

句会は三回目を迎えた。http://kukaiki.jugem.jp/?eid=7

この日のテーマは「贈答句」。なんと師に、私に宛てて二句詠んでいただいた。

直(す)ぐ に 立 ち 道 な き 道 を 歩 む 人

固 き 草 嚙 み 続 け た る 山 羊 に 似 て

私には「直立」のイメージがあるらしい。そうなのか〜。

私は洗足池のピエール氏に二句贈呈した。お中元のキャッチフレーズではないけれど、贈っても贈られても嬉しいのが俳句と知る。先生ありがとうございました。

ひととおり創作を終えたあとの雑談からも、「我」からの自由にかかわる新たなヒントを得、うーんと考え込みながら帰る。