弟子のSです

武術の稽古日誌

弟子であろうとするSです

「守る」と「受ける」は違う。「守る」とは「攻め込まれないようにする」ことで、それを形にしたのが「構え」だ。

このことを教わるきっかけになったのは、昨日、師と次のような姿勢で対峙していてのこと。下図のBが打ち込むのを、Aが揚力を使った刀さばきで逆に打ち込むという形稽古のあとで、ABが自由に打ち込むという段取りだった。無手ならば自由推手というところか。

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形だけ見ると青眼で構えているBの方が攻勢に見える。が、少しの間を置いたあと、B(私)はこんな感じになった。
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なんだかものすごく気圧されているのだ。師は半身も切らずにこちらを向いて立ち、手には木刀でなくスイカバーでも持っているような風情である。青眼で構えていてこの姿勢の人を攻められないって・・。私は自分のしていることがよくわからなくなり、次のように問うた。
「青眼の構えって ”守り” なんですかね? 今すごく守ってる気分なんですが・・」

そこから「守る」こと、「構える」ことについての講義が始まった。私は消極的・受動的な意味で使っていたが、冒頭のように、「守る」とは相手に攻め込ませないという攻撃性を孕んだもの。そうした能動的な意味で、青眼の構えは「守り」だ。そして攻め込ませないという点で、師の立ち姿は私の青眼の構えより遥かにアグレッシブなのだった。

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「攻め込ませない」ために一般には門をつくる。無手では両手を前に出し、一刀の剣では青眼に構えることで守るべきパーソナルスペースを自身の前に確保する。しかるに、突破すべき門も入り込むパーソナルスペースも無くただ「こちらを向いて立っている」、それが構えになっている・・。両腕越しに師を見て(くぅー、私もあれやりたい)と痛切に思う。こういうところが師の武術の魅力である。むろん師も相手構わずこの姿勢でいるわけではなく、ケースバイケースで、そこが大事なところだというが・・。

この稽古は中途で終わった。私が「桃太郎」の失敗をしたからである。
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-366.html
「聞く気がないなら終わりです」と仰って、謝礼も受け取らずに師は去られた。
得心のいかないことをとりあえず胸に仕舞っておく、ということをしない私に師がしばしば仰るのは「私はあなたに教えはするが議論はしない」。それは「日の丸欲しけりゃだあッてろ」ということだ(リンク先参照)。私が学ぶうえでの最大の障壁は師の話を黙って聞けないことで、師の仰るとおり、そのとき私は弟子ではない。弟子とは師の教えを正しく聞く者のことだからだ。「弟子のSです」というブログタイトルは話を聞きますという意思表明でもある。

「あなたの問題は、ちょうど今みたいに、いつもばかなことにこだわりすぎること」(『力の第二の環』カルロス・カスタネダ

いくら学びたいことがあっても、自身のこだわりがストッパーになって教わることができない。太極拳ではそういう時、努力でなく、ストッパーを外すことで進むべき方向に自らを導いてやるということをする。それを応用すればいいように思うが・・具体的にどうすればいいのか。

カスタネダ爆読み中

カルロス・カスタネダ
いま6冊手元にあって、気軽に読み進められる本でもないので、今夏の読書はこれで暮れていきそう。主な訳者である真崎義博訳のものを原著の刊行順に以下に挙げる。当時のベストセラーも現在ではなかなか手に入りにくいようだ。

1.『呪術師と私−ドン・ファンの教え』The Teachings of Don Juan, 1968
2.『呪術の体験−分離したリアリティ』A Separate Reality, 1971
3.『呪師に成る−イクストランへの旅』Journey to Ixtlan, 1972
4.『力の話』(名谷一郎訳では『未知の次元』)Tales of Power, 1974
5.『呪術の彼方へ−力の第二の環』The Second Ring of Power, 1977
6.『呪術と夢見−イーグルの贈り物』The Eagle's Gift, 1981
7.『意識への回帰−内からの炎』The Fire From Within, 1984
8.『沈黙の力−意識の処女地』The Power of Silence, 1987
9.『夢見の技法−超意識への飛翔』The Art of Dreaming, 1993

読むほどに(フィールドワークという体裁をとっているが、これはフィクションなのでは?)と思えてくる。修行者の聞き書きにしてはあまりにも精神的にハイパーな内容が語られるため「全てをわかった上で」書いている、主人公カスタネダ以外の書き手の所在を感じるのだ。
しかし実話か創作か、カスタネダとは誰なのか、そんなことはどうでもよくなる「真実感」がこのシリーズにはある。

いまは5の『力の第二の環』を読み始めたところ。初期四部作といわれる4までの内容を手短に言うならば、これはもうシリーズ名を『弟子のカスタネダです』にしてほしいくらいのものだ。読みながら、師ドン・ファンの語りを主人公同様に聞き逃すまいとしている自分に気づく。学ぶカスタネダの思考・心理・疑問が自分のそれと酷似している。「認識外の領域を認識する」ことに本気で取り組むという自身の経験がなかったら、これらの内容は到底理解できなかっただろうとも思う。(というか、この本を読んだだけでこの本を理解できる人なんているのだろうか・・。)

5以降を主に読んだ師によると、今後はサイキックウォーっぽい展開になっていくらしい。カルロス大丈夫かなあ。

稽古メモ

動きの素人っぽさ。具体的には「硬い」「我が出張っている」。師にガイドされるとそれらの欠点はすんなり改善され、柔らかく素直に動けるようになる。稽古に臨む下準備とも言えるその状態に自分でなれるよう覚え書きしておく。

当日は大変暑い日だったが道場にエアコンは付けず、窓とドアを開放し調光も明るすぎないようにした。いつもする床の拭き掃除も要らないという。自然に近いそんな環境の中で站樁する。師より口頭での指示、立つのに必要とする以外の力を全部抜くこと。耳を澄ますこと。蝉の声、子供の声・・。連想のおもむくまま、心のたゆたうに任せる。遠い夏、濡れたプールサイドの熱気。水を抜くため耳を付けたコンクリの匂い。

そこからゆっくりとスワイショウ。徐々に動きをつけていき、 突き、裏拳、横蹴り、前蹴り、コンビネーション。背中を使って体全体でしなるように打つ。相手にぶつかる拳や足先は固めず解放されている。打点でブルブルと震え、紙に向かって突くと破裂音がする。

このような段階を踏み、まるで浸透圧を同じくしたように自分と周囲との境界が心身とも曖昧になったところで向かい合い、自由推手。組手をすると、当身をしても不快さがなく、二匹の猫があばれて遊んでいるような組手になった。私の息が上がって動けなくなるまで続け、ついに床に転がり、飛び出そうな心臓をなだめる。言われて目を閉じると瞼の裏に夏空が広がった。

稽古のあと師がひょいとコンビニに入っていったと思ったら、ガリガリ君をおごってくれた。 汗だくドロドロの身にしみわたるガリガリ君であった。「これは必要経費」と仰っていたので、ここまでを学ぶべき一連の内容とする。
トドメのように通り雨に打たれてずぶ濡れになったが、「彼我の無さ」が極まっていて何がどうでも問題ない。この境地が冒頭の站樁から始まっていることを心に留めておこう。