弟子のSです

武術の稽古日誌

一人稽古メモ

中二病と師にいわれる私は自意識対策に俳句を詠んでいる。落ち着いて順序よく考えれば詠む対象と自分とは同じものなので(むずかしい言葉で「梵我一如」という)、対象に対して直(ちょく)であれば、それは自意識なんて上っ面のものでない、本来の自分が詠んだ句、すなわち良句になるはずだ。
太極拳では動作の際、滑らかな動きを阻害するストッパーになっているものを、爪先の角度を変えたり手のひらを翻すことであらかじめ外してやる。水が流れるよう蛇口をひねってやるのだ。そのためにはまずストッパーに気づけないといけない。自意識もまた対象に直であることを阻むストッパーだ。何をするのでも、自らを狭めるものに違和感を覚えないうちはろくな者にはなれないと思うのでがんばる。
仕事用にホームページを持っているので、賑やかしにもなるからと、そこに自作の俳句を載せることにした。実名のサイトなのでリンクが貼れないのが残念だ。

・ゲーム「アンダーテール」をYouTubeで見始めた。師の薦める意図がわからないのでとりあえず見る。私はRPGというものをしたことがないが、人生をふたりぶん生きるようなものなのか?

カスタネダ読み終えた

カスタネダドン・ファン本6冊を読了。終わってみれば付箋でいっぱい。神秘的だ、トリッピーだと受け取られ、もてはやされたシリーズらしいが、私にはごく実践的・普遍的な内容に思えた(巻によります)。
「呪術」という言葉が交霊とかその筋の印象を与えるけれど、師ドン・ファンカスタネダに伝えようとするのは人間の認識の多様性とでもいったもの。

私の便宜をはかるために、ドン・ファンは折にふれて自分の知識に名前をつけようとした。彼自身はナワーリズムという名称がいちばん適当だと思っていたが、このことばがやや曖昧すぎることも承知していた。ただ "知識“ と呼ぶのでは漠然としているし、"魔法" といってしまうのも問題がある。"意志の統御" では抽象的すぎるし、"全面的自由の探究“ では長すぎるうえに比喩的な色合いが強くなってしまう。結局、これ以上適切なことばが見つからないとあって、完全に正確とはいえないと認めながらも、彼は "呪術" ということばを使うことに決めたのだった。(『沈黙の力』) 

求心力あるドン・ファンの教えにカスタネダはのめり込んでいくんだけど、描写される、彼の呪術との距離感は私にとって大変リアルな、身に覚えのあるものだった。
しかし巻が進むにつれ修行者としてのドン・ファンの来歴が語られ、その師やそのまた師の人柄と来歴も語られ・・。これはカスタネダの物語というより、文字通り、ドン・ファンの教えを「聞く」物語なのだと思う。一個人の成果の話ではない、それは必要だが重要ではない、ということ自体が教えでもあろう。

読んだ6冊のうち5冊は真崎義博訳だが、初期四部作の最終巻である『Tales of Power』だけ別の訳者のものを読んだ(『未知の次元』)ので、真崎訳による『力の話』も読んでみたい。真崎訳のカルロス(カスタネダ)の方がキュートなのです。読み終わってしまい、これがほんとのカル「ロス」だ・・。すいません・・。

弟子であろうとするSです

「守る」と「受ける」は違う。「守る」とは「攻め込まれないようにする」ことで、それを形にしたのが「構え」だ。

このことを教わるきっかけになったのは、昨日、師と次のような姿勢で対峙していてのこと。下図のBが打ち込むのを、Aが揚力を使った刀さばきで逆に打ち込むという形稽古のあとで、ABが自由に打ち込むという段取りだった。無手ならば自由推手というところか。

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形だけ見ると青眼で構えているBの方が攻勢に見える。が、少しの間を置いたあと、B(私)はこんな感じになった。
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なんだかものすごく気圧されているのだ。師は半身も切らずにこちらを向いて立ち、手には木刀でなくスイカバーでも持っているような風情である。青眼で構えていてこの姿勢の人を攻められないって・・。私は自分のしていることがよくわからなくなり、次のように問うた。
「青眼の構えって ”守り” なんですかね? 今すごく守ってる気分なんですが・・」

そこから「守る」こと、「構える」ことについての講義が始まった。私は消極的・受動的な意味で使っていたが、冒頭のように、「守る」とは相手に攻め込ませないという攻撃性を孕んだもの。そうした能動的な意味で、青眼の構えは「守り」だ。そして攻め込ませないという点で、師の立ち姿は私の青眼の構えより遥かにアグレッシブなのだった。

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「攻め込ませない」ために一般には門をつくる。無手では両手を前に出し、一刀の剣では青眼に構えることで守るべきパーソナルスペースを自身の前に確保する。しかるに、突破すべき門も入り込むパーソナルスペースも無くただ「こちらを向いて立っている」、それが構えになっている・・。両腕越しに師を見て(くぅー、私もあれやりたい)と痛切に思う。こういうところが師の武術の魅力である。むろん師も相手構わずこの姿勢でいるわけではなく、ケースバイケースで、そこが大事なところだというが・・。

この稽古は中途で終わった。私が「桃太郎」の失敗をしたからである。
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-366.html
「聞く気がないなら終わりです」と仰って、謝礼も受け取らずに師は去られた。
得心のいかないことをとりあえず胸に仕舞っておく、ということをしない私に師がしばしば仰るのは「私はあなたに教えはするが議論はしない」。それは「日の丸欲しけりゃだあッてろ」ということだ(リンク先参照)。私が学ぶうえでの最大の障壁は師の話を黙って聞けないことで、師の仰るとおり、そのとき私は弟子ではない。弟子とは師の教えを正しく聞く者のことだからだ。「弟子のSです」というブログタイトルは話を聞きますという意思表明でもある。

「あなたの問題は、ちょうど今みたいに、いつもばかなことにこだわりすぎること」(『力の第二の環』カルロス・カスタネダ

いくら学びたいことがあっても、自身のこだわりがストッパーになって教わることができない。太極拳ではそういう時、努力でなく、ストッパーを外すことで進むべき方向に自らを導いてやるということをする。それを応用すればいいように思うが・・具体的にどうすればいいのか。