弟子のSです

武術の稽古日誌

年度替わり

・この3月で、子供空手の二人の生徒が小学校を卒業する。
教室からも卒業する一人は、小2から5年間、本当に真面目にがんばって稽古を続けてきた色帯さん。そしてもう一人は中学生になってもやめずに通ってくるという。私が子供空手の稽古に参加しだして4〜5年経つが、これは初めてのことである。

この数年で嬉しかった出来事の一つは、彼らが自主的に用具(鏡)の片付けをするようになった時だ。
それまでは師と私とで鏡をしまっていた。片付けだけでなく作法全般を師は生徒にことさら強要しないし、それを自然なことと受け止めて私もどうとも言わずにいた。するとある日、一人の子が自分からすすんで手を貸してくれるようになった。一人が始めたことで、皆で片付けるのが今では自然な流れになった。
「先生たちが運んでる。自分は運んでいない。運ぼう」。この心の動きを敬意というのか愛と呼ぶのかわからないが、しつけの成果としてでなく、自身の心のあらわれとして、彼らが自発的に礼にかなう振る舞いを始めたことを、私は他教室に誇りたいと思う。

卒業する子のお母さんが私宛にも寄せ書きの色紙を作ってくださった。「S先生へ感謝」とあり、私の方がありがたくて胸が一杯だ。継続する子からのメッセージ「中学生になったらあなたを負かします」に頬が緩みっぱなし。やめないのがこの子自身の意思だと思えば、私の彼への視線はすでに「同志」である。

・3月末時点の組手メーター: 3|44|300

・柔道の型についての課題と、空手の流派についての課題にそれぞれ取り組んでいる。

観察する稽古さらにつづき

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水曜稽古で句会の下見に行った。次回の集合場所はJR日暮里駅近くの天王寺というお寺である。そこにおわします、菩薩像をスケッチ。

f:id:porcupinette:20180322194107j:plain 「弥勒半跏思惟像」

まずは好きなだけ凝視し、描けると判断したところで実物を見ずに描く。

f:id:porcupinette:20180322194115j:plainby 師

f:id:porcupinette:20180322194044j:plainby S

スキャンの練習も積み、今回の私はわりと見たまま描けた感触が、つまりいささかの自信があったのだけれど、師のに比べたらやはり依然デフォルメというか「私風味化」が激しい。これが実技の稽古で「目の前で手本を見せても、頭の中で別物に変換してしまう」と指摘される所以であろう。
あと、文字は見る対象外という指示を聞き漏らし、文字をもスキャンしようとしていた。そのうえで頭に定着したのがこれだけ、という、いろんな意味でのお粗末。

次に、実物を見ながら写生した。

f:id:porcupinette:20180322194132j:plainby 師

 f:id:porcupinette:20180322194124j:plain by S

実物を見ずに描くのと見て描くのとで私の絵が全く別物になるのに対し、師の絵は初見で脳に定着させたものと実際に見て描くものの差が少ない。なぜこうした違いが出るのか。

この日ネットの「ほぼ日」で読んでいた画家の山口晃の技術論に、見ることについて次のように語られた箇所があった。(抜粋)

「リアルなもの」こそが、絵描きの「よすが」になってくると思います。(「リアル」でなく)表面的な「リアリティ」のほうが、だんぜん形にしやすいんです。記号的ですから、共感も得やすいでしょうし。しかし「リアル」の抜け落ちた、「リアリティだけでできたもの」を世の中では「詐欺」と呼ぶでしょう。

本来わたしたちはすべてを等価に見ているはずなんです。意味で優劣をつけず、すべてを等価に。そうやって「見」ないと絵というのは、描けない部分があります。そして、そう「見る」ためには、描く対象から意味をはずす必要がある。

対象を前景化させず平坦に見ること、と言っていた。むずかしいが、自分の何が見ることを妨げているかはわかる。

「弥勒半跏思惟像」、句会に参加される方は興味があれば当日探してみてください。

スケッチを通してこの菩薩像そのものにも興味が湧いた。男なのか女なのか、性というものを超えた感じがする。すると後日、白洲正子の『両性具有の美』という著作を手にする機会があり、ページを開くとそこに「弥勒菩薩半跏思惟像」の写真が載っているのだった。こうした偶然には驚かない。これは進めのサインだ。

稽古メモ

組手メーター: 2|41|300

最近心に残ったこと。
子供組手の時間、師が皆を座らせて次のような話をしていた。「周りが目に入らなかったり、集中していないと、どんなに力や技があっても危機に気付かない。それは死にやすいってことだよ」。そして生徒に「君たち死にたくないでしょ?」と問いかけた。するとひとりの子がそれに対して「おれ時々死にたくなる」と答えた。小2の、ふざけてばかりいる子だ。そのとき話をしていたのもそもそも彼らの目に余るおふざけのためだったのだが、その子がそんなことをつぶやいたので、へぇ、と思っていると「死にたくなるけど・・あー、でも殺されるのはイヤだな」と続けて言った。

人の気持ちは生きると死ぬの間を時折揺れ動くが、誰かに殺されるのはいつでも避けたい。
生殺与奪権が他者の手に渡ることを人間は望まないようにできている。十歳に満たない子供でもそうなのだ。

そのあと師も仰っていたのだが、たとえば連続殺人犯が死刑になることを望んで事件を起こしたとしても、事件の現場で目の前の警官に殺されることはまず望まないだろう。

いつかは死ぬべき存在という本質的な不自由のもとにありながら、人は生殺与奪権を自分の手にしていたい。つまり選べる存在、自在でありたい。自由とは、選べるということだ。

武術の出発点とも言える言葉を口にしたにもかかわらず、その子の目は相変わらずタリラリラ〜ンと宙を泳いでいる。でもこういう言葉が時々聞けるのが、子供との稽古のおもしろいところ。