弟子のSです

武術の稽古日誌

カポエイラ

義父が急逝し、新年から喪中の人となっております。
訃報が入るまで集中していたことを、落ち着いた時のために書き留めておこう。

師がいままで折に触れて紹介されていたカポエイラに遅まきながら興味を覚え、あれこれと勉強を始めたところだった。

カポエイラは不思議な武術である。輪になって行う「ホーダ」を一見しただけでは、これが本当に武術なのかどうかも判然としない。セッション、祭事、あるいは呪術のようにも見える。ホーダの中心でジョーゴとよばれる「組手」をする二人は踊っているようにも曲芸をしているようにも見え、その表情には微塵も悲壮感がない。ブラジルの無形文化遺産ということで、ブラジル人の気質とも深いつながりがあるようだ。

この摩訶不思議なカポエイラが、とりわけジョーゴが「何」なのか。それを知ることで、演武・組手がよくなりそうな予感がすごくする。


Grande & Itapuã イタプアン講習会


MANDINGA EM MANHATTAN

武術ゆく年くる年

今年もあれやこれやと課題を残しつつ暮れていこうとしているが、年内最後の稽古で面白いことを教わったので図説する。
それは突きへの対応に関することだ。

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①まず、突きを手の甲で受ける。これは普通に痛いし、相手の力によっては手を破壊されてしまうかもしれない。

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②次に手を裏返して、手のひらで受けてみる。すると俄然当たりが柔らかくなり、同じ力でもあまり痛くない。

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③さらに、突きをこちらから迎えにいってみる。こうすると全然痛くないというか、もう、そもそも「当たっていない」。

②も③も、ストレッサー(ここでは突き)に対する太極拳の処し方を示している。前者は「自己を変形させてその場から退かずに身を守る」、後者は「くっついて離れない」。
通底する考え方は「我慢をしない」ということだ。ストレスは外部の刺激が「負担」として働くときに初めてストレスとなるので、負担がなければ我慢は「しない」というより「する必要がない」。北欧のことわざに「悪い天気というものはない。あるのは悪い服装だけ」というのがあったと記憶するが、稽古が進めば進むほど楽になるといわれるのは、太極拳が「ストレッサーをストレスにしない術」の宝庫だからだと思う。

今年は同居の80歳になる実母が心身ともに弱って要支援状態となり、自分史的には「介護元年」とも言える年だったけれど、先の見えないことだけに、介護というストレッサーをストレスにせず、持続可能な暮らしがしたいと思っている。そんなときだから、タイムリーな教えが印象に残った。
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市民講座の生徒として師から太極拳を習い始め、来年の秋には在籍10年を数えることとなる。三度目の冬に師弟となり武術の稽古を始めたが、稽古年数を重ねるほどに、自分がどれだけ芸の無い人間かがしみじみと理解されてくる。今年、夏か秋だったか、稽古中に天啓の如く「私は師に到底かなわない」と距離を悟ったことがあり、それを師に話したところ「今ごろ気づいたんですか」と呆れられた。そして「そう気づいたことで近くなったかもしれませんよ」と言われた。悲しみとは違う、乾いた諦念のようなものがそれ以来胸にある。

というわけで、自慢にもならないが「へなちょこ」「向いてない」というのが、おそらくは私の原点なのである。女性なのに、歳をとっているのにすごい、と私を褒めてくださる方がいるが、すごいとしたら「女性でも、歳をとっていても、どんなでも、やろうと思えば問題なくできる武術」がすごいんだろうと思う(いや、あんたには問題しかないだろ、という声はおいといて)。

以上が10年目を迎えようとする今の心境だ。この間(かん)、師が私を指導者や後継者にでなく、一貫してひとりのファイターに育てようとしてくださっていることに感謝している。
子供空手の男の子の挨拶を真似て今年の締めくくりとしよう。どうぞ、皆様
「すごいお年をお迎えください。」

快食、快食、快食

私は実用書などにイラストやカットを描いているのだが、長く描かせていただいているジャンルの一つに「訪問歯科診療」というのがある。高齢や障害等で通院が困難な人のための、歯科の往診サービスのことである。

先日、クライアントの会社に招かれて初めて学会を取材させてもらった。歯科医、歯科衛生士、管理栄養士や介護業界の方々、厚労省のお役人など様々な職種の方が知見を持ち寄って発表する場で、今年で18回目を迎えるそうだ。
老齢の母親を家族に持つ身としては、仕事だけでなく日常生活に大いに役立つ内容であった。そして胸踊ることには、武術的だった。

私たちは不慮の死に方をしないかぎり、いずれ老いるか病を得て、自力では病院に行けないという身体的ステージを迎える。「全ての人は運動機能と認知機能が衰える。そして通院ができなくなる」というのが訪問診療の立脚点である。平均寿命から健康寿命を引いた「不健康寿命(=自力通院が困難な期間)」は平均で男性が約9年間、女性は約12年間。その期間を支えるひとりが「家に来てくれる歯医者さん」というわけだ。

北海道から出席の歯科医が次のように話していた。
「人生の最終段階における辛い状況を可能な限り改善し、人間としての尊厳を最期まで大切にすることにどう関与できるか。歯科医療は、食支援を通じてそのことを学ぼうとしている」。
人間としての尊厳を「自由であること」と読むならば、この問いかけは、おお、我々が日々武術に問われていることと、やたらかぶるではないか・・。
その方の報告された症例では、末期がん患者に対し、亡くなる数日前まで慎重に歯のメンテナンスを施していた。もちろん患者本人の意向あってのことだろうが、もう、ほとんど「明日世界が終わるとも、今日林檎の木を植える」的な世界観である。

先日の座学で、師から「武術は自由のための闘い。象徴的なのは、たとえば柔術の手解き。誰からも束縛されないで、どんな妨害に遭っても自由を担保できること」というお話を伺ったが、圧倒的に不自由な人生の最終ステージにあって、食べることを楽しもう、それを支援しようというのは、まさに武術的なチャレンジだと感銘を受けた。

「食べる楽しみ」というとき、口にする量の多寡は問題ではないと私は思う。(高齢では小太りの方が長命というデータがあるので、沢山食べられるに越したことはないのだろうけれど。)少ししか食べられない人も、固形物は無理で飲み物だけという人でも、大切なのはおいしくいただけること、食べたいと思って口に入れることだ。
それは逆境にあって余計なストレスがないということで、そうした人は、極端なことをいえば、たとえ飲み食いの楽しみが一切叶わない状況になっても、その状況なりに何かしら別の楽しみを見出して工夫するだろう。遊びをせんとや生まれけむ、たとえ客観的な健康が損なわれても、人は終生「健やか」でいられるはず。武術が求める強さとはそれ以外にないような気がしている。

・・もちろん学会ではそのような理念にとどまらず、現場の具体的なノウハウの交換や、事例の報告と考察に多くの時間が当てられた。大切なのは考え方だが、することは常に現実的な実務のかたちで表れる。そんなところも武術的だと思った。

夕刻に散会。
いかにも歯科医然とした年配の先生、スキンヘッドで格闘家のような体躯の先生、IT起業家のような先生・・と個性も多彩な先生方はそれぞれの地域に戻り、翌朝からまた利用者さんの住まいへ赴くのだ。頭の下がる思いしたが疲れた表情の人はいない。志ある人にはやりがいのある、エキサイティングな仕事なのだろうと思われた。
(今日ここにいた人を知能順に並べたら、自分は確実に最後尾だったな・・)と思いつつカンファレンスルームを後にし、食べることを大切にしよう!!との思いを胸に家路に着いた。

一般社団法人 日本訪問歯科協会 https://www.houmonshika.org/patient/