弟子のSです

武術の稽古日誌

今夏の覚え書き

あれよあれよという間に夏が過ぎていった。この夏の特記事項。

・前回の記事で自分のひざの怪我について書いてまもなく、師が稽古中に右ひざを負傷された。靭帯損傷ということで、2か月経とうという今でも少し足を引きずっておられる。
怪我された翌週か翌々週に、小金井句会の吟行が予定されていた。行き先は初めての遠出となる小田原で、師の足は稽古後に最寄り駅まで歩けないような状態だったので、延期しませんかと進言してみた。すると(予想はしていたけれど)「何寝ぼけたこと言ってんの」と一笑に付された。「足を切断したって行くし、車椅子でも行く」と意気軒高である。かくて当日つつがなく句会は挙行された。どんな脅威に曝されようがどこ吹く風で日常を守るという、師の武術の面目躍如といったところだ。
その後四足歩行を研究してみたり、杖術ならぬステッキ術を深めてみたり、機会の活用に余念がないことは周知の通りである。

・私の稽古については、杖がだいぶ手に馴染んできた。太極拳套路を杖で、ということもやっている。各動作はお手本の動画を見ながら家で覚えた。時間は有限だから、家でできることは自習する。「眼前無人当有人」(目の前に人が居なくても、居るかのように)という武術の言葉があるが、一人で練習していても、そこで「ああこれなんだ」という感覚をものにすることができれば、術の授受は成立する。少なくとも成立させる下準備にはなっている、と思う。
以前、師に杖を貸していただいたにもかかわらず、することが思いつかず、殆ど何もせずにお返しして叱責されたことがある。武術を始めた2012年のことだ。その叱責に7年越しでようやく応えている。師も先日「Sさんとの最初の3年はヘレン・ケラーにwaterを教えるようなものだった」と述懐しておられた。まさに桃栗三年柿八年。

・師に教わって『西遊記はじまりのはじまり』という映画を見た。一度見て、師に「わかりにくい映画ですね」と曖昧な感想を述べると、あなたが全然わかってないと言われ、この武術的な映画はあなたには課題だとまで仰るので、もう一度借りてきて本気で見たら、ものすごくわかりやすかった。西遊記についての(おそらくは多くの日本人が抱く)固定観念を吹き飛ばし、かつ娯楽性と深遠さとを併せ持った佳作である。エンディングでほのめかされる続編が楽しみだ。…と、そこまで評価が変わる自分もどうかと思うが、映画の感想は二度見てから言え、という教訓を得た。
中島敦西遊記ものを読むと迷いなく沙悟浄に感情移入するが、本作では畏れおおくも玄奘(のちの三蔵法師)に自分を重ねてしまう。妖怪ハンターを名乗りながら妖怪にボコされまくりのへなちょこな彼は、うなだれて師に問うのだ。「師匠、僕はこんな役立たずなのに、どうして僕なんかを弟子にしたんですか?」。
同業者に「あんた何系?」と武術の流派を聞かれて「調教系…」とおずおず答える玄奘が、何をもって妖怪に対峙するかは、見てのお楽しみ。

サードウェーブきました

2009年に太極拳を、数年後に武術を習い始め、2012年の稽古中にひざに大きな怪我をした。前十字靭帯を切ってしまったのだ。
歩いていてもがくっとひざが抜けて転んでしまうような状態で、当時は師を灯台に暗中模索するような毎日だったから、私は松葉杖でおろおろするばかりで、それでも稽古は休まず通っていた。

そのとき師に言われた言葉が「あなたの武術は今が始まり」。どうしよう、終わりなんだろうか、終わりたくない、と私は切羽詰まった気持ちでいるのに、師は終わるどころか「始まり」と仰る。「組手だってできているじゃないか」と。思い返してもどうやっていたのか謎だが、師の指導のもと、確かに組手もやっていた。

再建手術を受けるかどうかで数か月迷い、リハビリと並行していくつかの病院を巡った末、保存療法を選ぶ(手術しない)ことにした。MRIの所見で全断裂と言われたが、実は見えないところに靭帯が残っていたのか、不安定ななりに「低値安定」してその後何年も過ごすことができた。

あの事故がなかったら、師のいう「武術」がどういうものか本当にはわからずにいたと思うので、いまや私の中では完全にポジティブな出来事に仕分けされている。

そして先日のことだが、稽古中に再び同じひざに怪我をして近所の整形外科にかかり、レントゲンで「捻挫(靭帯損傷)」と診断された。もっともレントゲンでは靭帯の状態はわからないので、「怪我によるダメージは骨には無い」のがわかったということである。

それより、骨の状態を見て指摘されたのは、関節周囲の軟骨のすり減りと、骨棘(骨が変形してトゲのように尖ること)があることだった。いわゆる「変形性膝関節症」である。これははっきりと

加齢

によるものだ。私はもともと関節がゆるく、そうした変化の影響を受けやすい、つまり痛みの出やすいひざであるらしい。
確かに、ただの怪我なら回復に伴い痛みが減っていくはずなのに、今回は思ったように治らない。少し運動をなまけていると痛みがぶり返す。ぶり返すならまだいいが、受傷当日より増悪してたりする。

参考:変形性膝関節症(Wikipedia

日本国内に限っても患者数は約700万人というありふれた疾患であり、年だからとあきらめたり、我慢しているケースが多いのもこの病気の特徴で、行動が制限されがちになるため、適切なケアが望まれる。

症状は人によって差異が見られるが、一般的には初期段階で、階段の昇降時や歩き始めに痛んだり、正座やしゃがむ姿勢がつらくなる。病気の進行とともに、起床時の膝のこわばりや、関節が炎症を起こす、「水がたまる」と表現される膝関節液の過剰滞留などの症状が出やすくなる。さらに進行すると、大腿骨と脛骨が直接こすれることで激しい痛みが生じ、やがて歩行困難となる。
40歳以上の男女の6割が罹患しているというデータもある。また、どの年代でも女性が男性に比べて1.5-2倍多く、高齢者では男性の4倍といわれている。O脚の関連も指摘されている。加齢とともに発症しやすく、中高年の女性に多くみられる。

関節リウマチや膝の外傷などが原因となることがある。中でも、前十字靭帯を断裂したことのある人はそうでない人に比べ、将来的に変形性膝関節症を発症するリスクが3.62倍になるという調査結果も示されている。これは前十字靭帯を再建する手術を受けた場合の数値であり、手術を受けず保存的に治療を行った場合、リスクは4.98倍にまで上昇する。

 私、どこから見てもハイリスクの人だ・・。

今回の怪我を契機に、これからは「加齢」つまり身体の経年劣化について考えることが増えるだろうと思った。事故や天災に遭わなくても(「遭わないから」というべきか)やってくる、体の不具合や病気といった生体の変化に支配されない人間になりたい。平均寿命が90歳に近づこうという日本である。後世に役立つかどうかはともかく、一つの参考例にはなるだろう。師はまだお若いし、私だからできることとも言える。

昨日、武術用の杖をまさに杖として使い、痛むひざをようよう運んで道場に辿り着いた。これでは到底稽古にならないだろうと思うのに、やはり始めてしまえば稽古はできるのだ。なんというか、自分の仕事は「道場まで体を運ぶこと」だけって気がする。とくに耐えるでもなくふだん通りに稽古し、仕上げに演武まで。

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夏至でした

というわけで、私は自分に「あなたの武術はもういちど今が始まり」と話しかけてやっている。こういう言葉かけを師を待たずに自分でできるようになったところが、前回との違いと言えば言えるかも。

感じを習う

このところ護身術教室の生徒の間で杖がブームで、遅ればせながら私もマイ杖を購入して親しんでいる。握り締めず、構造で支えて、手の中で滑るように持ち、受け流す。杖は「捨己従人」の奥義を知るためのよい稽古になると思う。
「捨てる」とは?
 捨てる主体である「己」とは?
「従う」とは?
 従う客体である「人」とは?
そうしたWhat?について、あの棒が、言葉でなく感覚で教えてくれる気がする。

30代の後半から10年ほど英語の勉強にはまっていた。外国語学習には波があって、プラトー(平坦な、いわゆる伸び悩み状態)とブレイクスルー(急激な伸び)という二つの時期を繰り返しながら力がついていくといわれているが、私が自分のブレイクスルーで体験したのは、英単語の意味が「語感」としてわかるようになったことだ。

語感がわかるとは、たとえば「run」という単語に触れたとき、「走る」という日本語が思い浮かぶのでなく、何というか、手と足を勢いよく振る「あの感じ」、正面に風を受ける「あの感じ」、息遣いが速まる「あの感じ」…という「’走る’ にまつわるあの感じ」が総体として即座に連想される、ということである。
単語帳の対訳を「覚える」のと違い、語感はいったん「知る(感得する)」とその後忘れにくいようだ。英語から離れて久しい今でもそれなりの語彙が保たれているのは、たぶん「語感の保持」が記憶力の仕事ではないからだと思う。

武術の稽古で求められるものも、単に技の手順の習得ではないとすると、ある意味「感じ」の習得と言えるのではなかろうか。
「感じ」は直接言語化できないものだから(言語化できるくらいなら「感じ」と言わないはず)、言葉だけ受け取って理解するのは、少なくとも私には、とても難しい。わからない、という長いプラトーに耐えながら、わかった人の助けを借りつつ自助努力するしかないのだと思う。わかる日は突然来て、それは一瞬の出来事である。一旦わかると二度とわからなく(できなく)ならない。私の数少ない経験ではそうだ。

杖の稽古の先に、演武について理解のブレイクスルーがあるといいな。

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しばらく、といっても数週間ですが、ブログを非公開にしていました。武術の稽古が「感じの習得」であることに関連するかもしれませんが、学んだことを言葉で伝えようとすると、何をどう書いても不正確な気がして、公開する益がないと考えたからです。
しかし過去記事には師からコメントを頂いているものもあり、それを学習に役立てていらっしゃる方がいると知って元に戻した次第です。そうした方々がいらっしゃることで、はじめて、拙文を公開することが武術への恩返しや貢献に少しはつながるのかもしれません。訪ねてくださる奇特な方にお礼を言いたいと思います。