弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古ノートから

中華剣の対人の型稽古では苦戦されている方も多いかと存じます。参考になればと乱筆の恥を忍んでノートの図解をアップします。(最後でふりだしに戻り、ループする。)
半身になり両方の前腕を上げる最初の構えを「ひ」と表現しています。そのほか解読しづらい箇所はお尋ねください。
「熊歩」の足捌きとそこから導かれる体捌きは汎用性と発展性に富み、「ここ試験に出るからね!」って感じの重要ポイントかと思います。

f:id:porcupinette:20200222123145j:plain

 

武術ゆく年くる年

今年も早や大晦日となりました。毎年暮れになるとその年の総まとめ的な記事を書くのですが、今回は「俳句」に特化して書いてみようと思います。

直近の句会は去る11月19日に目黒区駒場で行われ、日本民藝館で古い壺を鑑賞したり、東大駒場キャンパスでのランチや駒場公園の散策を楽しみました。当日の模様は師による句会記に詳しいですが、私は例によって当日中に句ができず、恐縮しつつ宿題にさせてもらいました。

日本民藝館には「日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸」が多数展示されています(←Wiki丸うつし)。

1階のホール左手、入館してすぐのところにガラスケースに入った壺が展示されています。その壺を見ながら奥へ進むと、大きく切り取られた窓から裏庭が眺められるようになっていて、そこにもずらりと壺が並べられています。屋外の壺の「野性味」と、屋内の壺の「丁重に扱われ感」とのコントラストを次のように詠んでみました。

庭 の 壺 ガ ラ ス ケ ー ス の 中 の 壺

志賀直哉ばりに写実に徹して、読む人自身にイメージを対照してもらおう、とか考えていたような気がします。
これを師に見せたところ、うーん、と師は唸って「で、それについてあなたはどう思ったの?」と仰いました。
(私はどう思ったんだろうか・・・・・)

庭に置かれて外気に曝される壺と、ガラス棚に収まり人目に曝される壺。私自身は寒がりなので空調の効いた部屋の快適さが捨てがたいけれど、屋外で落ち葉を受けながら無雑作にたたずむ壺たちは、ワイルドで凛として、なんとも魅力的に映ります。それはかつて、武術に出合ったときの強烈な印象に通じるものがあります。
それで、次のように改めました。

秋 な ら ば 秋 の 風 受 く 野 良 の 壺

「秋ならば秋の風受く」は、室内の壺がどんな季節でも一定のエアコンの風しか受けないことを含意しています。「野良」という言葉は師にいただきました。
直したこの句を含め全部で5句提出したのですが、師にはこの句が最も佳い、と評していただきました。

さて、この句を作った翌週のこと。こちらの記事に登場する我が家の飼い鳥、コザクラインコの「イチ」が迷子になってしまいました。家のどこを探してもいないので、どこかの隙間から外に出て行ってしまったのだと思います。鳥を飛べなくするのはしのびないと、羽を切っていませんでした。

外を探すのはもちろん、交番に届け、人に尋ね、チラシを貼ったり配ったりと一通りのことはしましたが見つかりません。好奇心旺盛な子だったので、興味の向くまま外に出てしまったのだと思いますが、どこかで必ず(あれ?知らない場所だ・・)と思った瞬間があるはずで、それを思うとかわいそうで涙が止まりません。飼い鳥は人間の保護下でしか生きられないといいます。ましてや寒さに向かう時期。取り返しのつかないことをしてしまい、自責と悲嘆にくれながら日を過ごすうち、先の句をふと思い出しました。

秋 な ら ば 秋 の 風 受 く 野 良 の 壺

イチは奔放で感情豊かで遊び好きで、狭いケージに自分からは絶対入ろうとしませんでした。生まれて初めて屋外に出て、やがて寒くひもじい思いをすることになっても、そのときは風を心地よく浴びたかもしれません。秋だから、秋の風を。イチは、つらい思いだけを経験したわけではないのかも・・。自作の句に救われた気がしたのです。

そう気づいた後で元句「庭の壺ガラスケースの中の壺」を読み返すと、その表現がなんとも「よそごと」なことがわかりました。まるで血が通っていない。「私」がいない。「私」に欠ける句を師は「無!!」と一刀両断されますが、作っている最中には「写実に徹している」なんて気でいるのですから、愚かなものです。

ペットロスとよばれる喪失感は怒濤のようでしたが、以後、同じ喪失感でも少しずつ受容的なニュアンス—英語でいうところの「miss(いなくて寂しく思う)」—が混じってきているように感じます。I miss you.「愛しい」と書いて「かなしい」と読むような。心の底に悲しみを抱えながら、日に日に私は元気になります。

そんなこんなで暮れて行く2019年ですが、俳句以外でいうと今年は演武の何たるかについて少し理解が進んだり、師との対話が録音され公開されたりしました。実技の稽古はもう少し増やしたいところですが、家庭の事情もありなかなか難しいものがあります。
年内の最終稽古を終えて師は、私の来年の稽古について「インサイドワークに移行していくだろう」と仰っていました。インサイドワークとは何でしょうか? 例によってさっぱり予測がつきませんが、与えられた課題をこなし、ダメ出しに長考し、という、相変わらずのことをやっていくことになると思います。

一陽来復、来年がいい年になりますように。

演武とは何か

去年あたりから稽古に「演武」という種目(?)が加わったが、できたりできなかったりして安定しない。(全くできない、と書きたいところだが、褒められたことも数回あるため、正確を期すとこうした書き方になる。)

記憶するかぎり、たとえば型稽古中に「それは型稽古ではない」とも、組手中に「それは組手ではない」とも指摘されたことはない。しかし演武をしていると、しばしば「それは演武ではない」と中断される。そこで注意されることは、例によって「Aと非Aを同時にやれ」のように矛盾して聞こえる。「太極」が陰と陽とを矛盾なく抱合するように、そこには高められたクリアな解があるはずなのだが、今はまだ見えない。

そこで師に課題を出された。型稽古、組手、演武。この三つを定義すること。むずかしい問いだ!
「〇〇は××のようなもの」といった説明では「定義」にならないだろう。「では××とは何か?」と追加の定義が必要になるからだ。別の定義を要しない表現でそれぞれを説明するには・・・。うーんと唸って考えて、人数で区分できるのではないかと考えた。

型稽古とは、1人でも成立する稽古。
組手とは、2人でも成立する稽古。
演武とは、3人以上でなければ成立しない稽古。

「型稽古」は道場でするように複数人でもできるが、家で1人でもできる。「組手」は1人ではできないが、2人の人間がいればできる。ここにおいて「演武」は3人以上の人間がいなければできない。3人目の人間とはオーディエンス、見る人のことである。(組手が2人「でも」成立するというのは、見る人の有無を問題にしないということ。)

演武に欠かせないのは3人目の存在。それは必ずしも物理的な頭数のことでなく、たとえ3人目がそこにいなくとも、実技する2人が「見られている目」「見せていること」を意識すること。またその対象は生きた人にも限らず、先に世を去った人や、神のような次元を超えた存在をその場に意識するということでもあるかと思う。演武が鎮魂や奉納につながるとは、そういうことだろう。英語でいうところの「dedication」。
dedication:献身。専念。(人・理想などへの愛情、敬意のしるしとして)作品を捧げること

つまり演武では、実技する者は、自分たち以外にそのパフォーマンスを見せる、文字通り「演者」になるということ。

定義がこれで整ったと仮定して・・では「演者になる」とはどういうことか。もっと言うと「この私が演者になる」とはどういうことか。
自慢ではないが、武術に向いてない、と負のお墨付きを師からもらっている私だ。そもそも師の「教え子」であって、武術的力量や技巧において師とバランスしていないことが明らかな私が、師とともに演武する、そのことの意味。師が繰り返し私に演武の相手をさせることの意味。

それは、向いてないとか上手くないということが、演武ができない理由にならないということだろう。そもそも師の教える武術は、上手くなる日を夢見て稽古するものではなく、(できるまで待って、とは敵に言えないのだから)どうでも今の自分のままで戦えるようにするもの。ならばその武術を体現する演武も、今の私のままでできなければならないし、できるはず。そもそも「できる」より「する」のが演武であるはずだ。二人の演武で、師と私との「段違いの実力差」しか見る人に伝わらない、というのでは本当にお粗末なのだ。

適性がないなりに太極拳を10年やってきて、身についている・いないはともかく、「無訓練である」とはさすがに言えない。背伸びは無意味だけれど、何にもない、というのもまた嘘だと思う。師はブログの記事で、私の演武について「見ている人に何をどう伝えたいのか」「自分のやっていることがどう伝わっているのか」が課題、と書かれていた。ということは言葉の前提として、私は伝えるべき何ものかを既に持っているのだ。技の原理や、仕組みの緻密な再現性という点では現時点で難有りな私でも、演武を通して伝えるべき何かを持っている。何もないと思えば、師は私に演武をさせないだろう。

何を、どう、伝えるか。「演者になる」というのはその「どう」の部分、伝えるハウツーの部分をいうのかもしれない。見苦しい挙動をしないこと。好ましい所作で戦うこと。できないことで怯えず、できることで独善に陥らないこと。いい意味でポーカーフェイスでいること。なぜそうするかといえば、そうしないと「3人目」に伝わらないから。
演武は何に似ていますかと師に問われたけれど、こうして考えると演武は演劇的だ。共演者の息を読みながら、観客にどう伝えたいか、どう伝わるか、の「どう(How)」を意識する。それを徹底したときに初めて、私が既に持っていたものが何か、私たちが何を創ったのか、私たち自身も知るのかもしれない。

演劇の「え」の字も知らないのに、気がついたら演劇がどうとか書いているが、おりしも今朝のNHKの朝番組に綾野剛くんが出ていて、こんなことを言っていた。「台本を読み込んで、こうだと思って現場に行っても、相手の役者さんは(自分の解釈に反して)泣いているかもしれない。その時どうするか」。
演武にはシナリオがなく、演劇的といってもセッションに近い。「相手は〜するかもしれない、その時どうするか」を最初から最後まで問われているようなものだ。綾野くんは、それは現場で感じるものから吸い上げる、みたいなことを言っていた。綾野剛でこの稿を締めくくることになろうとは思いもよらなかったが、次は私もその心づもりで「現場」に臨んでみよう。

参考記事:
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-388.html合気道当身考」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-470.html「試合と演武」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-476.html「本年最後の更新です」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-478.html「演武の意識」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-489.html「最近のつぶやきからーツールからシステム、存在へ」