弟子のSです

武術の稽古日誌

目的的であるということ

私はあまり社交的な方ではないのですが、一時期、師に呪詛のように「交流交流交流交流交流交流」と言い続けられ、今では時々交流会に顔を出すようになりました。本当は家でお気楽極楽しているのが性に合っているのですが、それでは強くなれないと思って、少し勇気を出して。

森田療法という有名な精神療法があります。人の感情には二面性があるとし、「あるがまま」と「目的本位」というキーワードで、神経症などを克服していこうとするものです。

「 たとえば、対人恐怖の症状をもつ人ならば、自分の赤面や、人に見られるときの違和感や、顔の醜さ、その他にこだわりをもち、できることなら人を避けて会わないでいたいと考えるであろう。その一方で、彼には「生の欲望」があり、人と交わってより豊かに生活をし、自己実現をしていきたいという欲望も存在する。神経質(症)者(日常人も同じなのだが)は、この相反する二面性に常に悩まされている。

 しかし、ここで「生の欲望」を大事にしていくためには、不安・葛藤があっても、症状が存在しても、人と交わり、自己表現をしていかねばならない。その場合に、もし症状を否定しようとするならば、現実に背を向けて逃避をせざるを得ないのである。だが「生の欲望」を正しく維持しようとするのなら、逃避したいという一方の欲望(症状)をそのままにしておき、もう一方のよりよき自己実現をしたいという欲望に従った行動をとっていくことであろう。つまりこれが「あるがまま」である。」(岩井寛『森田療法』)

森田療法では物事にとらわれる感情を徹底的に軽視させます。師の仰ることとよく似ているのです。感情は楽な方へ流れようとするから、それに構わず、意志(目的)を上位に置くようにと。

以前、襲われて恐怖してもいいし、小便ちびってもいい。その状態でも体が動けばいいというような事を書いた。感情は素直にあっていい。それに支配されないことが大事なんだと思う。感情を殺すこと、殺そうとする事にやっきになるのは、感情に振り回されるのと大差ない。向いているベクトルが反対なだけで、躁病と鬱病が同じ類の病気なのと一緒である。ただ、必要な分だけ恐怖して、それはそれとして振り回されなければいい。

別に叫んでも、脱糞しても、泣きわめいても、戦えればそれで問題ありません。

交流会への参加をさまざまな理由をつけて拒んでいたとき「ルックスに自信がないので行けません!」と言ったら、「じゃあ袋でも何でも被って来ればいいでしょう。エレファントマンみたいに」と返された。私の師は「そんなことないですよ」とは言わない。そこがいいところです。