弟子のSです

武術の稽古日誌

敵について

武術をやっている、と人に言うと「運動とかする人だったっけ?」と言われる。じっさい私は文科系の人間で、師についても、圧倒的な強さに加え、その文学的な素養と才能に惹かれるところが大きい。

そのせいか、武術についてことさら抽象的に考えるきらいが私にはある。

たとえば「敵」というものを、自分を滅ぼしにくるものと定義すると、自分に切りかかってきたり、首を絞めてくる具体的な人物を想像するよりも、人生の不如意やあらゆる苦しみ、老・病・死のようなものを考えてしまう。私はけっこう自責感情が強いので、自分の中に敵がいるようなところもあって、いずれにせよ抽象的。

そんな、頭でっかちな私に師ははっきり言われた。武術は言葉遊びではありません。

「とにも角にも、きると思ひて、太刀をとるべし」の「きる」は人生の諸問題に対処する、ではもちろんない。人間を斬る、なのだ。袈裟斬りにすれば肩が裂けて刃に脂が着く。敵とは、私に殺意を持った具体的な人間である。それが思えなければ常在戦場なんて本当にはわからないだろう。

もし、現実が「殺生なし」の世界で、道場が「殺生あり」の世界と勘違いしているならば、それはSさんが現実をディズニーランドと勘違いしているのではないでしょうか? 実際の世界はもっと残酷で暴力的で混沌としています。

世界は泥と蓮。

温室で花を咲かせるのは誰でも出来ます。しかし、それで「綺麗だねえ、ずっとこうしていたいねえ。だからもうずっと温室の中で生きて行こう」と思うのならば、それは依存であり、逃避です。 たとえぼろぼろに傷ついても自由に生き、遠く高いところまで行こうと考えるなら、泥の中を進むしかありません。その泥の中で花を咲かせた時、はじめて本当の意味で世界を美しいといえるのではないでしょうか。

師は私を、切れば血の出る人生に引っ張り出そうとする。それは稽古という方法によってである。