弟子のSです

武術の稽古日誌

弟子と呼ばれし人々3

クリスチャンでもないのに聖書の文章が好きで、近所のミッション系の大学に講読に通ったりしていました。新約聖書は、すごくざっくり言うと、イエスという人が弟子を得て伝道する一部始終を4台のライブカメラ福音書)で捉えたような物語です。様々な読み方や解釈があるのでしょうが、師弟物語として読んだとき、弟子のあり方について考えさせられることが多いです。

逮捕され刑死する師イエスを、派手なかたちにせよ地味にもせよ、弟子はみな一度は裏切って見捨ててしまいます。なかでも、その裏切り方で有名なのはユダとペトロではないでしょうか。

ユダは、裏切り者の代名詞ともなっているように、イエスのことを刑吏に密告し売ってしまいます。ペトロは、逮捕されたイエスとおまえ一緒にいただろう、と問われて「そんな人は知らない」と三度言った、ということになってます。二人とものちに無惨な最期を遂げます(ユダは自殺、ペトロは殉教)が、ペトロは聖人とされ現在のローマ・カトリック教会の始祖となり、一方のユダは裏切り者の烙印を押されることになりました。

ペトロとユダとの間で、イエスを慕う気持ちに差があったとは思えません。福音書を読みますと、ペトロは直情径行型でわかりやすく、ユダは屈折したタイプではありますが、そのユダの心情も読んでいて思わず「わかるわかる」とうなずきたくなるものです。

私が興味があるのは、失敗した弟子と成功した弟子はどこが違うのかということです。同じく師を愛していながら、なぜユダは破滅し、ペトロは栄光を得ることになったのだろうか。もっと言ってしまうと、ユダはどうすればよかったのか。

彼らと立場を同じくする者として、そのことを結構ひんぱんに考えます。ユダ悲惨ですから。

私が考える二人の違いは、ペトロはほとんど「自分を勘定に入れずに」師を受け入れているが、ユダは自己愛が強いというのか、まず自分があって、師にこうして欲しい・こうして欲しくないと考え、意のままにならないことに苛立ちを感じるタイプだったということ。

師の前に身を投げ出すような信頼を託すこと・敬意を全身で表現することが弟子としての条件・責務だとするならば、それを全うしたのがペトロ、果たさなかったのがユダということでしょうか。

今まで考えたことがありませんでしたが、師弟関係をむすぶというのは、ふたりの人間のあいだに(弟子側の敬意と信頼に基づく)圧倒的な権力関係が存在することを双方で承認しあうことなのかもしれません。そう考えると弟子が師にリクエストしていいこと、いけないことが見えてきます。

のび太ドラえもんに「何とかしてえ」と泣きつくことができるのは、ふたりが友達だからです。師弟は友達ではない。ましてや恋人でも夫婦でもありません。「〜して欲しい」「〜して欲しくない」弟子が師にそれを望むのは越権というもので、ユダは自分かわいさのあまり、そのへんのところを心得違いしていたように思います。

いつのまにか反省文みたいになってしまいました。