弟子のSです

武術の稽古日誌

「ドラえもぅん」について考える

師のいう武術、そのエッセンスをものにすべく稽古を続けてきたが、私はどうも、鍵を握る師・ナビをしてくれる師にもたれがち。何ものにももたれないことが師の説く武術なのだから、この、もたれなくなるための修行で師にもたれているという構造は絶対ヘンだと自覚している。

物理的に師と離れればいいのだ、とも考えた。いないものにはもたれようがないからだ。道場でする稽古だけが稽古ではないのなら、師のHPのテキストを参考に、仕事や家族の世話などを通じて私なりの武術を追求することができるのではないかと。

すると師は言われた。あなたは自分で自分を叱れるんですか?

私の武術に関して叱るネタを思いつくのはいつだって師だ。私は自分を責めることは得意でも、的確に叱ったり、軌道修正することが不得手。大体、軌道修正というのは立ち返るべき軌道があるからできることで、武術のできていない私に、武術的な修正ができるはずがないのだ。

私は師を失う訳にはいかない。

こんな私自身も何人かのひとにはもたれられている。だからわかるのだが、もたれられる側にとって一番喜ばしいのは、もたれる側が自立してくれることだ。それで初めて、対等な人間同士として付き合えるようになる。

武術。何をどうしたら犬から人間になれるんだろう。もっと稽古しなさいって、具体的に何をすればいいんだろう。武術をやっていて悩みなんてあるはずがない、師はそう言うけど、今だけ言う。私は、何が何だかわからない。やればやるほどわからなくなる。時々すごくつらくなる。

でも、わからないなりにやっていくしかないと思った。武術よ早く私の中から姿を現してください。