弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

武術90分。屋外で杖術と?術。

「?術」と書くのは名称が不明なため。巌流島の戦い宮本武蔵が使ったような・・異様に重たい木製のオール様のもの。暫定的にここでは櫂と書きます。

腕振り。杖での素振り・突き・背面に回す・剣のように打つ・コンビネーション。櫂での素振り・八方切り。単推手。双推手。杖を使っての套路

杖術は稽古不足であまりに拙く恥ずかしい。苦手意識も強い。

短棒だったら折り畳み傘、刀だったらバットと代用できる形状のものが身近にある武器術ならともかく、杖や櫂など、何というか、リアリティのない武器を鍛錬するのは何のためだろう。

それは「道具の意に沿う」という感覚を養うためかと思われる。たとえば、櫂を用いた稽古のポイントはあの異様な重さをコントロールする点にあるのだと思う。思いのままに操ることとは違う。「道具の意に沿う」とは、その形状にとって最も自然な動かし方をしてやること。それができると、道具を使っているのか、道具に使われているのかわからなくなるという。それは太極拳套路で、たゆたう重みに対して体が抱く感覚であり、また、相手の気持ちに沿うことで相手を制するという、組手のセンスにもつながる話。

うまく表現できなくてもどかしいが、武器術での「道具ー自分」、太極拳での「重み(波)ー自分」、組手での「他者ー自分」。これらの関係性は同一であるということだと思う。境界が曖昧になるというか。

・・などと頭ではあれこれ思索しつつ、実際には、振り回した杖を頭にぶつけてるしょうもなさ。

稽古後の話で、師が内田百閒をご存知なことがわかって嬉しかった。夏目漱石の弟子であって、私の中では最も理想の弟子像に近い人だ。師弟についてはともかく、百閒自身は癇の強い性格で、極端に感情に翻弄されやすい人であった。私の「執着全否定へのためらい」の理由を説明するのに、百閒をご存知ならば話が早いと思った。執着についてあまりに無防備なのが魅力の人だから。

というか、私はもしかして「執着」と「感情」を混同しているかもしれない。この件はまた稿を改めて。