弟子のSです

武術の稽古日誌

執着の是非について2

執着は本当の本当に捨て去るべきものなのであろうか、という考察のつづき

私はもしかすると、執着と感情を混同しているかもしれません。

師は我執は捨てよと厳しく仰いますが、それは感情を持つなということではありません。

むしろ感情は素直にあっていいと仰います。大事なのは感情に支配されないこと、囚われないことであると。

もちろん、人間なので恐怖などを完全に抑える事は出来ませんが、恐怖することと、恐怖に囚われる事もまた、実は別のことなのです。 震えている自分、激痛を受けている自分を、ちょっと幽体離脱して見下ろすように、「それはそれ、これはこれ」として扱うのが、組手などで養われる心のニュートラルさです。

喜怒哀楽の豊かな感情で溢れていながら、魂はいつも自由であるような状態。ニュートラルと呼ぶその状態を得るために稽古はあるということです。

自分の感情に囚われてしまい「幽体離脱」ができなくなった状態を、執着、と呼ぶのだろうか。だとすれば、それが武術的に望ましくない状態であることはすぐにわかります。武術は相手との関係性の中で成立するもので、戦いの主体は自分ではなく常に相手側にあるからです。自分に囚われていては勝つことができない。

感情はいくら激しくとも、それに囚われなければ共存が可能です。激情に駆られた時に「それはそれ」と自分を俯瞰できるかどうか。それができなくなった状態を執着と呼ぶならば、執着はやはりNGなのだ。自らの執着を題材に作品をものする作家にしても、その自分を俯瞰できなければ書くという行為は成り立たないはず。書く過程で執着は客体化されていると言えましょう。

「Sさんがプライベートでどれだけ執着が強かろうが私には関係のないことです」と師は仰った。「しかし少なくとも稽古をしている間は執着は捨てなければならないし、稽古以外でも捨てた方がいいはずです」。以上の考察により、私は納得しました。レッツ幽体離脱