弟子のSです

武術の稽古日誌

「と、いうことは」

師が先日の座学で繰り返されていた「と、いうことは」について。 たとえば将棋では、指し手が「戦い」をどう考えるかが戦法となって表現される。「穴熊囲い」を良しとする人・ひたすら「入玉」を目指す人・「振り飛車」で攻める人・・それぞれの人に「戦いとはXXだ」というコンセプトがあり、そこから始まって「と、いうことはXXだ。と、いうことはXXだ」と発展させて対局に臨んでいる。 武術も同じで、「戦い」をどう捉えるかにより敵へのアプローチの仕方が変わってくる。昨日の太極拳教室で、師はそれを太極拳形意拳八卦掌との対比で説明しておられた。 ここから先、私の考察。 将棋はそれぞれの戦法の「強さ」が勝敗というかたちで明確に示されるが、将棋と違って武術は命のやりとりなので戦法の「強さ」が検証しにくい。そもそも、何をもって強いとするかという「強さ」の解釈も人によってまちまちなので、だから武術には様々な種類・流派が生まれるのだろう。先日の合宿で一人の兄弟子が「武術をやるって、ある意味信仰だと思う」というようなことを言っていたけれども、私も全く同感。←この箇所、後日座学で師よりそれは違うとのご指摘がありましたので、そちらの記事もあわせてご覧ください 運命的に出会うにせよ、比較選択の結果にせよ、人に師事し流派に属するというのは師のスタイル・コンセプト・設計思想、そういったものを支持するという弟子の意思表明である。 「強さ」とは何か、「戦う」とはどういうことか、から始まって師から学んだことを「と、いうことは」「と、いうことは」・・と、誤りや偏りを師に正されつつ展開させていく。その展開のさせ方に各人の個性や人柄が表れるんじゃないかと思う。だから「師のスタイルを踏襲する」と「一人一武術」は矛盾しない。師のスタイルとは弟子にとっては「と、いうことは」を考える際の水平器のようなものだからだ。その意味において「師のようになりたい」は「自分自身になりたい」と同義である。本質は同じでも、表現は別のかたちをとるというか。