弟子のSです

武術の稽古日誌

暴力について2

昨日、自分はお花畑に身を置いて暴力から距離をおいたところで武術をしている、みたいなことを書きました。現実の暴力と意識が乖離しているところで何を稽古しても、私の武術は結局おままごとの域を出ないのではないかと思う。

そもそも暴力とは何なのでしょう?本当に自分とは違う世界に属しているものなのだろうか?

今日は暴力を他人事として考えない、考えられるはずがない、という話を書きます。

人間には本来、創造と破壊、双方の欲求があるのだと思う。お祭りの後片付けなんかでものをでたらめに壊す時、やたら楽しかったりしませんか。暴力とは言うまでもなく破壊に属するものですが、たとえば武術に暴力的な要素がなかったとしたらどうでしょう。もしかすると少し、というか、だいぶ面白さが薄れたりしないでしょうか。私は(程度によりますが)稽古で暴れてあいててて・・なんて言ってる時、生きている!という感じですごく充実しています。これって自傷行為に近いのかな?

暴力とか破壊って、ちょっと楽しい。大っぴらには言いにくいけれど、こうした気持ちが私の中には確かにあります。この、ピースフルな印象を全方位的にふりまく私にしてそうなのです。

創造への欲求・破壊への欲求、それは生の本能と死の本能とそれぞれ言い換えてもいいかもしれない。死を「安らかに眠る」という言い方にも垣間見えるように、人は暴力や破壊といった不穏なものに怖れと同時に安らぎや回帰を覚えるもののようです。(覚えるものもいます、くらいにしておいた方がいいかな?)

なんかだんだん文章が危なくなってきましたが、何が言いたいかというと、人間の中には暴力を指向する何ものかがあるはずだ、あなたの中にも私の中にも、ということです。人間とはそうした生き物なのだということを認めないことには始まらない。私が本で読んだあるいは映画で見た、刃物で刺す、歯科用ドリルを口に、菜箸を耳に突っ込む、煉瓦で顔を潰す、油をかけて火をつける、それらは私と同じ、人間が理由(わけ)あってすることなのだ。

という前提をふまえて次回は、しかし通常、破壊の欲求は人には向かいません。という話をしたいと思います。はあはあ。