弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

武術90分。後半60分は子供空手教室にお邪魔。

前半。合気上げの要領に加えて合気下げを新たに教わる。合気上げが手首を支点に親指を手元に引き寄せるのに対し、合気下げでは親指を相手に突き出すようにする。各関節の付け根に手刀を当ててこすり下げて相手を倒す技があるが、その際の手の動きである。24式太極拳の「海底針」という動きの要領だそうだ。合気上げの上向きの軌道・合気下げの下向きの軌道をそれぞれ確認したあと、その軌道を使った突きと受けを稽古する。

さらに、平たく軽く握ったこぶしを前哨戦的に相手にあてがってから突く稽古。

子供空手教室では基礎鍛錬、型を2種類、歩法(箭疾歩)、双推手、寝技。

型を分解していくつか稽古する。身についたら役に立ちそうな動きだ。この2種類は子供向けなのか短いので、がんばれば覚えられそうな気がする。ひとりの子はセンスがいいのか興味があるのか、片手を頭の後ろに置く構えを持つ動きを教わっている時に「こうやって構えると武器を持ってても(相手に)わからないね」なんて言う。私の間違いを正してくれたり、ちっちゃいが立派な先輩、同志だ。

それはいいとして、なんだかわからないが稽古中に「おじさん」呼ばわりされ、セルフイメージが崩壊する。瞳が無心すぎて真意が読めない。5歳児の目には十倍も年を重ねた人間はクリーチャーにしか映らないのであろうか。おじさんにしては私、可愛いと思うのよ?・・・・・

最近履き物と武術との関連に目が開き、サンダル履きの私に師が雪駄を履かせてみてくださった。ホールド感などというものはかけらもないことがわかった。かかとと靴底が基本的にまったく離れている。これは履き物というより、猫足になるためのツールだ。靴と雪駄とで、機能の点で裸足に近いのは靴だと思っていたが(素足をくるんで強化するイメージ)、指先を使って地面をとらえるという点で雪駄こそ裸足に近いと言われ納得する。アスファルトに板紙一枚隔てて肉球(拇指球)で歩くのはなんとも不思議な感触である。にゃおーん。

座学で師と問答している際、言われたことにピンと来ないことがままあるのだが、それは(単に鈍いせいもあるかもだけど)自分の問いになんとなく、自分であらかじめ答えを用意して聞いているからだと気づいた。師は大概私の思ってもみなかった新しい考えを述べられる。答えをもらうことが終わりでなく、こわし、検証し、考えることの始まりなので本当に時間がかかる。よくつきあってくださっているものだ。

師みたいになりたいのではなく、師になりたい。それは私自身になりたいということと全く矛盾しない。