弟子のSです

武術の稽古日誌

武術の子に教えを乞う

昨日の記事の、最後の続きをもう少し。

私にとって武術の魅力はその理の無謬性にあり、面白さはその突き抜けた自由さ=逸脱性にある。逸脱は全然いけなくない。いけないのは人の思惑を気にする私の小心です。

人類最大のベストセラー、聖書の物語は金言の宝庫で私も折にふれページを開きますが、クリスチャンでない私にはイエスが神の子であるという前提が致命的にわからない(わからなくてもその前提を受け入れないと聖書は味わえないのですが)。そのてん、師が武術の子であるということはあまりにも明白な事実なので、だから私は師について武術を学んでいるのだといえます。

それはそれとして、師弟物語として聖書を読みますと、修行上の心構えというか、弟子として人に師事するとはどういうことかが書かれていてためになります。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。・・同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(『ルカによる福音書』)

弟子となる以上は、大切な人や物を含めて自分自身をすべて投げ出せ、自身の苦悩(十字架)を背負う覚悟をせよ、というのです。これはイエスに限ったことではなく、宮本武蔵五輪書の「とにも角にも、きると思ひて太刀を取るべし」の「とにも角にも」という部分で表現していると思います。すべてに優先するものがある、と。それは師というより、師の先にあるものでしょう。

禅宗などはもっと過激で「爾の如法に見解せんと欲得すれば(真理を得ようとするならば)・・・仏に逢うては仏を殺し、祖(祖師)に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し・・・」なんて言ってます。師まで殺しちゃって稽古どうするんだろ。

だから要するに、逸脱がどうとか異形感がどうとか言っている場合じゃないということです。

わかってはいるんだ。

バランス・グーは40秒弱。手を広げていないのでうまく着地できない。アゴぶつけた(泣)