弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術→太極拳

仰向けvs立位。仰向けで首だけ上げ、両足で対面する立位の相手に対処する。掴まれた足首を振りほどく・両足を相手のひざ裏に当てて広げて崩す・カニ挟み(シザーズ)・両足を相手の鼠径部に当てて防御する。

五指の張りを順番に使い、掴まれた手首を取り返す。取り返したら、最後の小指の張りから体軸を回転させて相手を引き込む。投げ技へ発展させる。

太極拳では、竹竿がしなって荷重に耐える仕組みから、相手から受けた力をどの関節でも受け止めずに地面に逃がす、というお話。その要領を斜飛勢で稽古。それから、羽ばたき運動の時の「胸を窪ませ背を張る」要領で力を出す稽古を、提手と雲手で。

提手が自然体でないと指摘される。私は「さあ来い!」みたいに張りつめて含胸抜背しているので、提手を終えるとぜえぜえ肩で息をするような感じ。言われて力を抜いたらよくなった。

何かを教わる時「だったら、こうしたらどうなのかな」とつい検証したくなってしまう。検証して理屈に納得したいからだと思う。それは疑いというより、単純な興味だ。でもコメントで注意された「分かりやすい形で示されないと納得できない」を繰り返す結果になってしまって、今日もまた怒られた。自分で頑張っているつもりはなくても、それは頑張り、力み、なのだろう。「稽古で頑張るのは全部間違いです」と強い調子で言われたし、自分でもこの態度がいつまた事故につながるかもしれないと思うと怖い。どうしたら頑張らずに稽古できるのだろう。いつも同じことを言われて悲しい。

「納得したい」という気持ちは「カタルシスを得たい」という気持ちとたぶん同じだ。わかりたい。わかってすっきりしたい。わからないとすっきりしない。だからわかるために頑張る。ということは、頑張るのは、カタルシスを得たいから。頑張るといいことがあるから。師に言われるまでもなく、それは誤りだ。提手でガチガチに頑張っていたら片手で倒されたのが、肩の力を抜いた途端に倒れなくなったじゃないか。

頑張ることの弊害を、力むことの弊害を、これだけ言われている私が頑張るのだ。知っていて力むのだ。「頑張るのは美徳」という価値観に取り憑かれているのかもしれない。平成も四半世紀を過ぎようという、この時代に。

太極拳の最後に推手で、接触点から相手の気の抜けを感じとる稽古。苦しい。わからないこととの付き合い方が身につくまでこの苦しさは続くだろう。

帰りの自転車で、「気」って、これはいける気がするとか、これはダメな気がするの「気」かもと思いつく。その場を支配できるできないの「つかみ」みたいな。師に相手してもらい「全然気が入っていない」と言われた時の自分の状態を振り返って、そう思った。

帰宅して前回の稽古の記事を見ると、やっぱり師から「感覚:そんな気がする、といった時の気」と教わってる。そうか。

話は変わりますが、原発の汚染水問題が心配です。