弟子のSです

武術の稽古日誌

「眼前無人当有人」

・・は、一人稽古の要諦。目の前に敵がいなくても、いるかのように。「眼前有人当無人」(目の前に敵がいても(そのことに惑わされず)一人稽古のように)と対をなす。 仮想敵を心に描ききることができるって、「他者へのまなざし」に欠けると言われる私には、それだけで一つの大した能力に思える。しかし武蔵の「とにも角にも斬ると思ひて太刀をとる」も、それがなくては始まらない。 「・・・このような型の稽古は、「独り太刀をとって」行なうことが八割から九割だろうと、私は思います。相手がいるほうが稽古になると思うのは初心のうちで、次第に稽古が進めば、現実の相手のそこそこの力量は、かえって邪魔になります。が、そう思うためには、自分の型稽古において、理想の相手を想定しきることに、すでに充分習熟していなげればなりません,武蔵のような師匠が普段の稽古相手なら、もちろん言うことはないでしょう。けれども、それが最高の稽古だとは、ひょっとして言い切れないかもしれないのです。「五つのおもて」は、むしろこれを作った人がいなくなった時にこそ、稽古者にとっての最高の稽古法、隠れもない生き方となりうるでしょう。」(『宮本武蔵 剣と思想』前田英樹 去年、武器術を始めたばかりの頃、師が杖を貸してくださったことがあった。家に持ち帰って少しいじって一週間もしないうちに返却した私に、師の言われたことには、 (私の杖の)動きを目に焼き付けていたなら、私が逆の立場ならば、少なくとも次に返すまでには一日3時間は杖を振っていたと思います。音楽や文芸などが数百年を越えて人の心に語りかけるように、その時間は一人稽古ではなく「対話」です。眼前無人当有人とは、そういう意味でもあります。そうして初めて、手と杖が一体となる感覚や、体が自由に動く感覚を共有することができます。 がんばろう。慌てず急げ的にがんばろう。明日の稽古では「でもじゃあ」は禁句、師の技を動きをよく見て目に焼き付ける。頭の中で再生できるように。