弟子のSです

武術の稽古日誌

音羽さんは愚か者1

注意喚起・この記事の内容は「悔悟」「懺悔」です。聞き苦しい表現が含まれています。

>弱いうえに、今後強くなる見通しが立たないことに暗澹とする。

数日前にこう書きました。こう書く時の「強さ」とは本当に平たい意味での強さ、「組手で男性をやっつける」ことができる強さです。

武術は個人が負けにくく、死ににくくあるための術、さらにはそれを通して自由を得るためのもの。そうした言葉に魅かれて始めた武術なのに、どうしてこんなにも執拗に強さを求めるのか。自分の胸に聞いてみると、やっぱり師がかっこいいから単純にああなりたいというのが一つ、あと、多くの時間を割いて採算度外視で教えてくれる師を喜ばせたい、そのためには強くなることだ。なぜならば

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なんてことを考えておりました。犬ですね。

でもちっとも思うように強くなりません。組手も稽古態度も力んでばかり、しかも、こういう気持ちをモチベーションにしていると、熱心になればなるだけ自由から遠ざかっていきます。

そして伸び盛りのTくんを見るにつけ、私が「組手で男性をやっつける」腕っぷしを手にすることはもしかすると、というか冷静に考えて永久にないのだ、と思うに至りました。私こそお蝶夫人を喜ばせ寵愛を受けるにふさわしいとか、音羽さん(上)は何を思い上がっていたのだろうか。つうか、私はどうして今までそういう事を一度も考えなかったのだろう。

自分は、教えても何にもならない弟子である。

「私は劣等生です」

「そんなことはずっと前からわかっていました。私より強い武術家はいくらでもいますが、誰かより劣っていたら私は武術をやめなければいけないんですか?あなたは私が誰かより劣っていたら私の弟子をやめますか?」

「いくら教えていただいても徒労です」

「徒労が本当に徒労になるのはやめてしまった時だ。あなたは目の前のつらさから逃げたいだけだ」

嘘つき。エゴイスト。師からのメールには、ブログにある次の文章を500回読めと書かれていました。

もし、武術をやる上で悩むこと、苦しむことがあるとすれば、それは自分自身のことではなく、他者や武術に対して礼を欠いたり、迷惑をかけたときだろう。そうした問題に対する感性が無神経で、自分の問題しか頭にないようになってしまったら、そのことをこそ恥じ、問題としたほうが良い。武術は個人主義であっても利己主義ではない。

私は武術の海にいる資格はない。そう確信しました。武術は面白いから好きだけど、今のまま続けていくのは無理だし正しくない。つらい事は、どこかやり方が間違っているのだ。技を継承し武術に貢献する才能も資格もない私が、なんとか人に迷惑をかけないで武術と離れずにやっていくには、どうしたらいいんだろう。

つづく