弟子のSです

武術の稽古日誌

音羽さんは愚か者2

技を継承し武術に貢献する才能も資格もない私が、人に迷惑をかけずに武術をやっていくにはどうしたらいいんだろう・・・という昨日のつづき。今日登場するのは音羽さんでなくカッパです。

まだまだ、俺は悟空からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。・・・俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?(中島敦『悟浄歎異』)

沙悟浄は真理を求めて孫悟空とともにゴーウエストする訳ですが、悟空の並々ならぬ才能に圧倒されて常に苦悩しております。悟浄の嘆きは私のそれとイコールである。

私の抱える問題について師は次のように仰いました。「自我を確立して、我執を捨てなさい。それしか言うことはない」。悟浄の言葉を聞きますと、なるほどそうアドバイスしたくなります。

悟空の技を継承し発展に貢献する才能がない。行動者には最後までなれないかもしれない。

で、私は思いました。だったら観測者、観察者として貢献すればいいじゃないか。観察者と嘆く悟浄はしかしそれ故に存在意義がある。現に私が悟浄にこうして助けられているではないか。

観察者として筋を通す。それは悟空の、もとい師の最も正しく信頼できる観察者であること。思想は実技なしにはありえないという、だから私は師について実技を学ぶ。組手とは、推手とは、太極拳とは、稽古とは何か。そして師の仰るように「正しく理解する」ことが「できる」ことと同義であるならば、理解に努めるうちに悟浄のいう「行動者」になっていないともかぎらない・・。

出立の前に悟浄はお告げで何者かにこう言われた。

まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。

豚汁を作るのに豚肉がない時、豚肉がないことを嘆くな、ということだと思う。豚肉はないんだよ。身の程を知れ。けんちん汁にしなさい。おいしく作って人にふるまいなさい。