弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

武術90分。馬歩、鉄線功、腕振り、杖、一本の杖を挟んで取り合う、単推手。

馬歩のつづきで稽古した鉄線功は洪家拳の内功(内面的な力(気)を練る稽古)で、トニー譚が拳児の5巻、155頁でポーズを取っている。解説は「鉄線拳」として70頁に。気の力でやるものなんだ・・。馬歩もいずれも体幹が安定せず、押されても引かれてもぐらつく。「でも・じゃあ」を連発する私に師は心からうんざりしている様子。

自転車に乗れるということはバランスを体で覚えること。乗れずにいる人はバランスの感覚がわからないから「タイヤの2点だけで接地して、足は浮かせて回転させて進むなんてありえない。歩く方が楽」と頭で考える。しかし乗れてしまえば自転車の方が歩くよりよほど楽だ。このように、あることができないうちに頭で考える「楽」というのはアテにならない、そう師は仰る。馬歩も同じで、うまくできないととてもきついけれど、体の合理的な落ち着きどころが見つかればきつくなくなるとのこと。つらいのはどこかが間違っているのだ。

師がSさんはプラトン的だと仰る。何の事だかわからないが武術的に好ましくないニュアンスで言っておられるのは確かだ。

師いわく、会っていない時間に成長していない人間、前回の稽古をきれいさっぱり忘れてくる人間には教える甲斐がない。私は今日の稽古で一歩も前進していないという。私自身がブログやメールに書いたことが、まったく稽古態度に反映されていないと。私があまりに上達しないこと、すなわち、技に対する考え方がいつまでも身につかないことに業を煮やしておられる。「でも・じゃあ」ばかり言って自分を守ろうとするなら、もう私からあなたに教えることはありません。そして謝礼を受け取らずに去ってしまわれた。師は命がけだ。私にもそれを求める、なぜ必死にならないのかと。年齢から言ってSさんには回り道してる時間なんかないでしょう。

護身術教室の帰り道、稽古仲間と交わした会話を思い出した。

私「気の稽古ってほんとに難しいよね。わからなくて気持ち悪いね」

仲間「Sさんは真面目だからねー。聞き流せばいいのよ」

私がつい「でも・じゃあ」言ってしまうのは、わからなくて気持ち悪いから。頭で納得できないことを聞き流したり、とりあえずそのまま受け入れることができないから。でも自転車の例えにある通り、武術は頭で考えるのでなしに体得するものだ。

頭でっかちな私は武術に向いていないんだろう。向いていなくても、何にもならなくても、やること、続けることが大事。だけどその間中ずっと師にいてもらいたいと望むのは良くないことだ。

いつの日か、師とくつろいで世間話というものがしてみたい。日が短くなりましたね、みたいな。