弟子のSです

武術の稽古日誌

困ったプラトン

一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである。善く生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じだ(プラトン『クリトン』) こういう文章を読むと、「Sさんはプラトン的だ」と師の仰る意味がわかる気がする・・・・。 指摘されてみれば私はいかにもプラトン的、真理フェチ、であるので、師がかつて『ガラス玉演戯』の書評に寄せた「真理という形のないものを追う以上、ゴールはありません。ならば、どこで力尽き倒れても大差はなく、幸福な一生だったんじゃないでしょうか」 といったような文章にクラッときてしまいます。この記事にもクラッときた当時の私がコメントしています。 私の問題は、修行のそうした「西天取経」的な性質と、武術の本質を混同してしまうことではないかと思う。それも、ひじょうにプラトン的な誤解の仕方で。つまり一生懸命真理を追うという(修行というものが本質的に持つ)態度から、あたかも武術そのものに独立したイデア(理想・真理)=決定的な答えが存在するかのように取り組んでしまう。それが「じゃあ〜すればいいんですか?」「要するに〜なんですね?」といった、師がもう指摘し飽きて、病気とまで評される稽古態度となって現れる。 冒頭のプラトンの言葉に戻れば、「善く」も「美しく」も「正しく」も私にとってだけの真実だ。主観にすぎない。そうした意味において真実は人の数だけあり、師の言葉を借りれば、武術的に価値がない。武術は「相手のある実務」だからだ。そこには相手との千変万化する状況・関係性の中で必ず遂行されるべきたった一つの事柄があるだけだ。よく闘う、という。そのための捨己従人。 そこまで頭でわかっていてみすみす過ちを犯すのはひとえに、我が強い。我が強い自分を本当の本当にどうにかしないとという危機感がない。自分が可愛くて捨てられない。そういうことだと思います。