弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

『葉問』を見ると、構えた手の指先が「照準であり、銃口」なことがよくわかるなぁー。『師匠と弟子』第五話参照。

座学も基礎鍛錬も、一人で結構やった感触をもって稽古場所へ向かう。

マンツーマン30分+子供空手教室60分。まず一人稽古のチェック。空手の受け・草書体でする套路、どちらもダメ。間違ったやり方ならしない方がいいと言われる。

受けはそのまま一挙動で攻撃に移れるものでなければいけない。

「草書」については先日の記事の解釈を正された。草書体で太極拳をするというのは動きを端折ることではなく、起勢から続く流れに耳をすますことだと知る。それは必ずしも曲線的な動きになるとは限らないようだ。

技は先日の「磁力」を意識しながら玉女穿梭、彎弓射虎の応用などを教わる。

子供空手では基礎鍛錬/打撃を柔らかく凹んで受ける、回って逃がす/受け/掴みなしの組手/組手/座捕り/推手/上段の受けからこすり上げて倒す/イナズマ蹴り/寝技・・など。

以下、覚え書き。

・組手中に、相手の子に「この先生(Sのこと)力が強いよ」と言われてショック。師の方が優しいだなんて。師もそれを聞いておられ、私はポテンシャルが低いためにシャットダウンか全開かしかないのだ、といった指摘をされた。私には、出力やテンションのコントロールができない。

・推手・座捕り・組手、どんな時も師は姿勢を崩さない。私に対しては目新しい動きをしないので、師の動きは見慣れたものだ。この蹴りの後はあの蹴りがくる、この突きの後はあの突きがくると大体察しがつく。それでいてやられ続ける。というか最初から負けている。師はただ構え、ただ動いて、私などいないかのようだ。私は一人で大騒ぎして崩れる、本当に何なんだろう。

・受けの稽古で、芯にずーんと響く師の蹴りを受けた左足の痛みが引かない。なぜ患側で稽古したのか。なぜ咄嗟に健側にチェンジしなかったのかと、護身意識の甘さが悔やまれる。

稽古後に座学。あれこれと問答する。師のアパートの間取りから神についてまで。

神とかいう概念が私の胸に迫るのは、例えば地球の衛星写真で、絹のような大気がうっすらと地表を取り巻いているのを見た時などだ。あの薄膜を神の恩寵と呼ばずして何と呼ぼう。

私「あれ見たら先生、人は何ものかのグランドデザインによって生かされているとしか思えなくないですか」

師「そんなもの、ウ○コが薄く取り巻いてりゃウ○コに適応した種が残るんだよ」

がらがらと何かを崩され、被虐的な喜びに満たされた私は好奇心のおもむくまま次々と質問を重ねてしまう。それはついに師が「甘えるな」「答えを訊くな」と仰るまで続くのだった。

「Sさんはむずかしい弟子です。ついていれば甘える、いなければ間違った方向に努力する」