今日のお稽古
中野にて武術90分。八極拳を修練された方が来ておられ、型を見せていただいた。生『拳児』が見られて僥倖だった。
今日も盛りだくさんな内容だったが、「つかまれた手を抜く」「懐に入っていく」「かわす」・・全て相手と接触を保ったまま、というか接触を利用して行うというのが全編に共通していた。人間の身体がどのように旋回するかを覚えないとできないことだ。太極拳の要素を動きに反映させる稽古もたくさんさせてもらった。
・馬歩站椿(站椿は地に打ち込まれた杭のように立つ、の意)から相手を押す(片手・両手)
・単鞭下勢からの投げ(右・左)。相手の蹴りをとって単鞭下勢を足にかける
・突きから引っかける動きで次の攻めに展開する
・つかまれた手首を倒巻肱の要領で抜く。抜く側・押さえる側それぞれの攻めへの展開
・打撃で虚実をつくる
・手首の尺骨、橈骨できめる(二の腕〜足首)
・相手の服の袖をつかんでねじり落としてから攻める
などなど。
最後に組手をした。組手になると全てぶっ飛んでしまって、相手を見るとか、太極拳の要素とか、対話どころの騒ぎではない。一言でいうと「ぐちゃぐちゃ」である。男性のパワー・スピードとケガへの恐怖と苦手意識に負けている。
終わると、教わった動きが再生できなかったことがくやしくて不甲斐なくて目の内側が湿ってくる。でも、こうした気持ちになるのは織り込み済みだ。組手がよくないとそれまでの努力が全否定された気がするし、実際そうなのかもしれないが、えーと、えーと、師の言葉はどこだっけな。
自己否定や、組手の勝敗、駄目出し、リテイクを何回重ねても、それでやさぐれたりいじけたりしない芯を持つ=自我を持つ。
でもって、このじゃまくさい負の感情の洪水を収束させるには
自分自身を観察対象、客体としてありのまま評価する=我執を捨てる。
実力がない場合、組手で闘志が勝ちすぎるとケガにつながるし、身を守る気持ちが強すぎれば稽古にならない。闘志と護身のバランスが問われる場だし、そもそも闘志でカバーする組手なんてフェイクだと思う。実力がないなりの100パーセントで戦えたかどうかだが、組手中にそんな透明な心境にはとてもなれず、そのことに落ち込む。首を直角にうなだれたよくある帰り道だ。繰り返すが、この感情は織り込み済みだ。明日も稽古。暴力と知性と分別をわが手に!