弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

巣鴨にてマンツーマン30分+子供空手教室50分。

ほぼ1ヵ月ぶりに一対一で師と相対し「一人稽古で発見したことを見せてください」と言われてのっけから冷や汗をかく。私がしていたことは套路と馬歩とストレッチポール乗り。丁寧にやっていたつもりだけど研究的であったとは言い難いかもしれない。(どうしよう) すると師はフッ・・みたいな表情をされて(泣)では五指の張りを見せてくださいと仰った。中指の張りは、何度も繰り返した起勢の動きだ。そしたら「漫然とやっていなかったことはわかる」と言って下さった。危ないところだった。

先週金曜日に教わった「身体をつなげる感覚」を利用した打撃の稽古。前に出した両手が肩を介して「つながって」いれば、相手に片手を押された際、胴を軸にもう片手が前に出て相手を打つ。自分をなくせばなくすほど、相手は打った力で打ち返されることになる。これが捨己従人だ。

提手の姿勢を正しく作り、そこから靠へと引き寄せる手の動きをつながりを意識して行う。その他、つながる・つなげる稽古いろいろ。つながることの効果は力をそのまま伝えるほか、タッチや雰囲気を伝染させることも。それはつながりを自分の内だけでなく他者との間で持つことである。

子供空手教室。基礎鍛錬/受け・払い/突き/タックル/寝技/極め技/組手/型のおさらい。

突きは下がる(後退する)動作とセットになっている。相手を突きながら自分は突かれないという戦術の表れかと思う。相手にくっついて離れない太極拳の戦術とはだいぶ違う。空手は打撃の攻防であると学んだことで対照できるようになったのはよかった。

師と幼児の組手は参考になる。勝敗を争わない、本来あるべき組手が見られると思うから。師の動きに注意して見ていると、技に誘導する、誘導して受ける、相手にヒントを与えるように攻める、とにかく「与える」ような動き方をされる。それをキャッチする(正しく与えられる)感受性があるかどうかが大事なんだろうな。これを見れば組手は確かにやりとりだ。舞い上がってはわからない。

生徒のMくんはかつて私のことを「おじさん」呼ばわりしたいたずらなちびっこなのだが、ちょっと会わずにいるうちに成長していて驚いた。「そうやって打つとここが空かない?」みたいな研究的態度が見られるし、私の姿勢の間違いを直してくれたり。落ち着いて集中できるようになっている。人の成長に関与するとか寄り添うってすばらしい仕事だなあ。型稽古で押しあいながら、あと十年もすれば大きくなってとても太刀打ちできなくなってしまうだろうことを思った。

稽古後は夕食をとられる師の向かい側に陣取って座学。私は家で食べるので「先生、私のことは気にしないでどんどん食べてください」「言われなくてもそうします」。しかしつられて結構飲み食いし、私だけ上がりとデザートまで注文する。

座学で話した内容は多岐に渡るような、つまるところ一つのことであるような・・。一日分の記事には到底収まらないので、今後の日記のあちこちで紹介していくことになると思います。

ある事柄について師の仰ることが全部わかり、そしてまったく正しいと思う時、師の口を借りて(進化した、あるいは純化した)自分自身と対話しているような錯覚に陥る。師の失笑を恐れずに言うならば、師と私は似ていると思う。価値観など。しかし価値観の発現の仕方が師はピュアなので、それを思うと私はなんだか懺悔モードになる。いろいろあって狡くてすみませんと。価値観の発現こそが生きることじゃないんかい、と思いながら。