弟子のSです

武術の稽古日誌

ぐるぐるぐるぐる3

今日、師との対話から気づいたこと。

片足立ちなどを意識でバランスを取ろうとするのは誤りだとの指摘が先日あったが、実技でなく普段のことも私は同様のパターンでやってきたように思う。たとえばこのブログの記事なんかでも

落ち込んでは→いろいろ考えて持ち直す→落ち込んでは→いろいろ考えて持ち直す

意識で何とか戻している、その繰り返し。でも、きっと本当はそういうものじゃない。

今は実感として全く理解できないことだが、意識が自分だと思っているうちは、その「意識」がずっと自分の本体を抑圧しているのだという。「本体」? それは意識の奥にあって意識の上位にあるもの。抑圧された本体の声を聞こうとしなければ、いくら知識を増やそうが、いくら考え込もうが、師と同じ世界に立って、同じものを見ることはできない。

本当の自分、あなたが長年に渡って木目を無視して彫ってしまったせいで見つからなくなってしまった仏を「探す」作業が武術です。

他人と比べてどうこうとか、才能ガー、劣等感ガー、というような下世話で低次元な話はどうでもいいんです。

木目を無視して彫った結果としての今の自分を、このままではいやだと感じていながら、なぜ後生大事にするのか。その奥のものを探すのでなければ、師の弟子でいる意味がないではないか。

傷つくのが怖いから。負けるのが怖いから。リスクを負いたくないからだ。すると師は言われた、傷つくのもそんなに悪くないですよ。「傷ついて強くなる。得るものがあるのはいつでも負けた側です。勝って強くなった人はいない」

私がやめようと思えば終わる。どこへでも行ける。だけどここ以外にいたい場所がない。

本当の私、私のしたいこと、私の欲しいものは何なのだろう?

師のよく言われる「もっと自分のことを考えなさい」とはそういうことなのだ

いつまでも手間のかかる弟子、ほめられるのは熱意だけな弟子でいるのはいやだ

「もうダメだ」と「がんばるぞ」の間を行ったり来たりするだけなのはいやだ