弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

昨夜フィギュアの羽生結弦くんの練習風景をTVで見たのだけれど、彼は4回転ジャンプを日に60本飛ぶんだそうだ。足にかかる負担を考えたら限界すれすれの(越えてる?)本数らしいが、私が驚いたのはその練習後、跳んだ60本全てのジャンプについて自身でノートに「いい」「まあまあ」など評価を色分けで記し、さらに細かいコメントを添えてあること。そのつど記録するのでなしにあとから思い出して書いている。うまく跳べたジャンプ、跳べなかったジャンプの微細な違いを覚えている。なぜそんなことができるのか。そこに師のいう

極限まで心を澄ませ自分の中に深く降りていくこと、漫然とダラダラ稽古せず、正しく見て、聞き、そこから常に何かを汲みだそうとする意思

があるのだと思う。ぼんやり見ていたそれを改めて思い出したのは、今日の稽古を終えてから。

武術90分。久しぶりのマンツーマン。

師は現れるなり「今日はいっさい言葉を使わずに稽古します」と仰った。向かい合った師の技をまず私が受け、そのあとで逆をする。接触点の感覚を研ぎ澄まして、感触から動きをなぞる。技を受けている時にかけ方をなぞるばかりでなく、こちらが技をかけている時には師の受け方をなぞる。文字情報NGでノートも取らなかったが、合気上げから投げ技、返し技、受け払い、推手、套路の型など何十種類とやった。叩かないこと、太極拳の型を崩さないこともくり返し伝えられる。

向かい合う相手とは点対称だから真似をしようとすると難しい。なぞるというのは、師という乗り物の助手席に座らせてもらって、運転する師と同じ風景を見ることだと思う。別の言い方をすれば、接触点から彼我の境界を取り払って、自分を拡大するというか無くすというか、そんな感じ?私にはまだできないので想像です。

うまく言えないけど、師は確かに自他の境界の曖昧な方であって、真逆なのが私だ。今日の稽古でいうと、90分のうち休んだ3分ほどを除いてはどこかが常に相手に接触しているわけだから、接触点から相手の情報を得られる師と得られない私とでは情報量に圧倒的な差がつくのは当然の必然。羽生くんも60本のジャンプを通して氷から・身体から・現象から言葉でない情報をもらっているのだと思う。

おぼつかないなりに感触を吟味したあと、最後に組手をした。組手で相手から情報を得るのは型稽古のそれより何倍も難しいと思った。それに加えて私の場合は「勝つにせよ負けるにせよ結果を急ぐ」悪癖があるという。未決の懸案事項があるという状態に耐えられない。なんでもいいからとにかく技かけちゃえ、となる。あー・・・。

稽古後、師がずっと黙っておられたので心配になり、先生大丈夫ですかと尋ねると、Sさんこそ喋って大丈夫なんですかと問い返された。今日みたいなデリケートな稽古のあとで、感触を覚えていようと思ったら黙らずにはいられないはずだというのである。「技がうまくかかった時の感触を思い出して、頭の中で何度もくり返すこと」。

なにしろ私はまだまだ稽古が足りない。できるまで稽古するからできるので、できないことがすなわち稽古が足りないことの証左である。できないという「未決の懸案事項」を抱えた状態に、たとえば10年耐えられるか。・・師との対話中や別れたあとの頭は考え事で溢れかえって白煙が立ち上っている。そしてしばらくして、昨日見たTVの羽生くんのことが心に浮かんだのだった。

羽生くんは本番で失敗してもいちばんに国民の皆様に謝ったりはしないだろう。あのノートを見て、そういう種類のモチベーションではないと思った。

カサブタってろくなもんじゃないですね。