弟子のSです

武術の稽古日誌

模倣と創造

野口三千三『原初生命体としての人間』は手元に置いておきたい本だと思ったのでアマゾンで文庫版を買ったらば初版本からだいぶ改訂されていて、読みやすくはなっているけど下の箇所などなくなっていて残念。長い引用なので誰かに怒られたら削除します:
模倣と創造  フランスからやってきた二人のマイム役者、ピエール・ビランとイレーヌ・ステヴスの公演「道化とコンサート」を楽日に見た。  つぎにあげるのはある演出家の感想の一部である。 「ピエール・ビランの描く世界は何と豊かなイメージに満ちていることだろう。イメージは幾重にも重なって、複雑に色をかえ、宇宙はゆらゆらとゆらめきただよう。字宙旅行をしたような、それでいて自分の内部にもぐりこんでさまよったような、私にとっては何とも不忠議な体験だった」  いつも他の人がどうであるかを無視する私が、最初に他の意見を書いたのは、当日、同じ舞台を見た多くの演劇人が、そろってこれとほとんど同じ感想を私に語ったからである。そしてこの点に関しては私もまた何らの異論もない。さらに「なんと柔らかく軽やかなからだ、素晴らしく美しい動きであることよ!」という点についてもまた同じ。しかし私はこのとき、熱っぼくビランを讃える雰囲気の中で、今までにもこれと似た演劇人の姿に何回か接したことを思い出さないではいられなかった。それは何回か行なわれた訪中新劇団の帰国直後のことである。ほとんど例外なく中国における「肉体訓練のすばらしさ」を讃え、目をかがやかせて語り、みずからの訓練の必要を覚悟した俳優が、その後どれだけみずからの肉体訓練を行なったというのか・・・。哀しくなるのである。憤りを感ずるのである。  明治以来、古代ギリシャ思想とキリスト教精神の結合によって生まれた西欧の文化を、人類にとって唯一最高のものと忠い込んで、ひたすらそれら諸国に追いつこうと努力をつづけてきた、日本民族の哀しい宿命であろうか。私も諸外国のそれぞれすぐれた「よさ」を否定する気持はまったくない。そして彼らのすぐれた点を模倣することもよいことだと思っている。なぜならば、創造のない模倣はないからである。しかし、しかし・・・と、どうしてもいいたいのだ。疑いもなく日本人であるみずからの中に、当然のこととしてもともと持っているはずの「自分のほんとうのよさ」をどうして見い出そうとしないのだろうか。それがどうしたら発現されるかの努力をしないのであろうか。「自然」ということの第一義「他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによって、そうなること、もしくはそうであること」を、どうして信ずることができないのであろうか。いつも他の力を借りようとする者が、どうして創造を本質とする芸術を生きることができるのであろうか。中国もモスクワ芸術座も、ルコックもビランも確かに絶讃・尊敬するに足る人たちである。だからといって、日本のすべての演劇人には、それに匹敵する独得の素晴らしきの素・種・芽がないと、誰に断定することができるのであろうか。そのような決定は今すぐ停止すべきである。私はあなたの両肩をわしづかみにして、グシャグシャ激しくゆさぶり「あなたの中にもあるじゃないか・・・」と叫ぴたいのだ。日本の新劇がいつまで欧米の亜流・植民地的演劇であってよいと思っている人があるであろうか・・・。
私の中にあるもの、それは水戸黄門の「うっかり八兵衛」だと師は仰るのです。昔も今も、そしてこれからもそうだと。師が仰るならそうなのだろうと内心思うのですが、よし八兵衛だったとして、私は今後どう生きていけばいいのか。 マーガレット・ハウエルかっこいい、好き好き margarethowell.jpg なのに私は八兵衛 好き嫌いって我執なのだろうか? 否! 私はそうは思わない。