弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のたぶんお稽古

今日は私の稽古でなく、師の稽古のアシストということでお会いしたのだが、師の生態や師がなぜ強いのかはご一緒していてつくづくと謎である。なんというか、師は、私とは違うペースの世界で生きておられて・・・終始のらくらしているかと思えば、私の5倍位の速度で食事を召し上がる。おうどんなんか麺ごと一息に飲み下してしまう。昨日、師から学ぶとは「瓶の水をそっくり別の瓶に移し変えること」と引用したけれど、師と私はずいぶんと趣の異なる瓶だ。 私は道場での師にいわゆる心酔をしていて、強さの奥にあるものを自分も欲しくて武術をしていると思うんだけど、結局、興味を持つ、好くということは対象と同時に自分を見つめる作業であって、師といると「自分の好きの本質は何なのだろう」といつも考えさせられる。この「好きの本質」が瓶の「水」に相当するものだ。その本質がわかって、自分の瓶にその水が満たせれば(自分の瓶に同じ水があることに気づけば、かな?)、私は私でいながら師になれる。そういうものだと思った。 それが今日考えたこと。 22日の記事を読んでくださっていて、明大前のパン屋さんのことを仰ったので、私は「そりゃもう本当においしくて、夜寝る時に、明日の朝起きたらあのパン食べるんだと思うと幸せな気持ちになるんです」と言った。すると師は「それが武術です」と仰った。それが武術なのか・・・ 意識的に努力しなければならない方向の努力は誤り、と以前伺ったように思う。今日の稽古で、自分を離れて師の視点でものを見るのはやはり難しかったけど、努力でどうなるものでなければ今は仕方ない。それより、私の中にごく自然に武術がある、「私の」瓶に水が入っていると指摘されたのは嬉しいことだった。それが武術です。それが武術です。 師から学ぶのは違和感の中から砂金を掘り出すような作業だけど、趣のまったく違う瓶に同じ水を湛えるから面白いんじゃないか。現れるものが創造的なんじゃないか。自分を慰めているだけかもしれないけど、そう思うことにする。私はうどん飲めないもん(象徴的な意味で)。 ↓合作しましょう、と描かされたマンガ。右から左、右から左と読みます。偶数コマが師。 collabo.jpg とてもひどい・・・