弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

護身術+太極拳

さまざまなシチュエーションで「自分の」武術を考える稽古。自分なりの戦い方、体の使い方を考える。前日のことから、研究的態度ということを教えようとされていると感じた。

後ろから抱きかかえられた(胴のみ・腕ごと)/羽交い締めされた/短刀をX字に振り回された/短刀で突いてきた/棒を振り回された

力で対抗しないための方策の例:指を一本取る、脇をくすぐる、足・すねを蹴る、姿勢を変えて隙間を探るなど

対短刀:腕振りの要領でよける、半身にした二の腕でかわす或いは盾にする、手首の外側で払うなど

太極拳では肩を経由した腕のつながり(例・通背拳)を意識しながら套路をする。片手が下がると片手が上がる、片手が前に出ると片手が後退する。金鶏獨立、斜飛勢など。

倒輦猴〜(ターン)〜斜飛勢〜(ターン)〜雲手。流れを止めずに行う。

研究的態度で稽古に取り組むとはどういうことか・・・

ひざをケガして不安定感がひどかった時、その状態で戦うには、という稽古をしていたわけだが、例えばひざに負担のかからない足運びや踏ん張らない捌き方など、師の提示するものを必死に(そりゃもう自分のことだから)身につけようとしていた。師に言われたことをこなしていれば安心だったし、実際その時学んだことは大きいのだけれど、今思えば、師はそうしたこと、片ひざが使えないという状況での武術をもとから知っていたのではなく、私のために考えてくれたのだと思う。私は「どうすればいいんですか」「こういう時はどうすればいいんですか」と問い続け問い続けて、ある日、師に「俺にはわからない。ケガしてないから」と言われたのだった。

その時私の感情は突き放されたように感じたけど、でも答えを丸投げして教えて教えて言うのは熱心でなく怠惰なのだ、師のしていたことは本来私がすべきことだったのだということが今頃になってわかった。師の武術を学ぶ私にとって師は教本そのものだから持ち歩いていつも開きたい。でもそこには甘えるな、貪るな、自分で考えろと書いてある。考え方はもう充分に伝えた、マンツーマン稽古も充分重ねた。ここから先は師にはわからない。師は私じゃないから。

自立するとはおそらく、自分はひとりであることを血肉で理解すること、そこから出発することだ。

だからと言って、あの時どうすればよかったのか、これからどうすればいいのか・・。師に頼らずにやっていけるかな。「刺激に飢えてる主婦」的には、ダンナさんの元に戻って一件落着となるんだろうけど、どう考えてもそういう問題じゃないと思う・・・