弟子のSです

武術の稽古日誌

佐山先生へ

(15日の記事にいただいたコメントへの返信です)

>どうして武術が好きだ、純な気持ちでやっている、と言いながらも、「じゃあ下段や八双、居合は無手の戦術に当てはめた場合どうなるのだろう? どの構えに対してどれが先をとるものでどれが後なのだろう? 推手にあてはめるとどんな技術になるのだろう? そして剣や槍以外の武器の動きは無手にどう反映するのだろうか?」というような知識欲や探究心が1mmも起こらないのでしょうか?

ここで取り繕っても仕方ないので申し上げますと、仰ったようなことは確かに1ミリも思いつきませんでした。先生のブログに「それは小学生でも考えれば思いつくことであり、考えないのは怠慢で、人が教えていることをまじめに聞いていない証拠だ」とあるのも読みました。

>私は興味をもっている人に教えることは出来ますが、興味の持ち方は教えられません。

>私は関心のある人に教えることは出来ますが、やる気のない人をあやしたりなだめて関心をもってもらう、というような指導は、未就学の幼児にしかしません。

興味や関心の程度や方向はそれこそ自分にもコントロールできませんので、それが弟子であることや研究者の基準に合致しないとしたらそれが自分の限界なのだと思います。

稽古を始めたごく初期の頃に先生に「Sさんは私のことは好きだけど武術のことは好きじゃない」と言われ、その言葉はずっと薄暗く(ブログにも今まで書かなかったくらい)私を縛ってきました。破れた胴着を着て出鱈目に強い、しかも出鱈目なのは強さだけではない先生のことを「かっこいい・・」と憧れて武術を始めたことは確かだし、今もその気持ちは変わっていません。

ただ、先生かっこいい、だけで武術には興味がないとして、全然やる気がなくて、こんなに熱心さが持続するものかしらとも考えます。自分としてはそれだけではない何かがあるのだと思います。武術は私(私の生き方・生活)に属するものだから、そもそも嫌いになりようも無関心になりようもないものだと思いますし・・興味・関心というよりは、脳の器質的傾向(論理的思考による応用力・分析力・探求力に欠ける)の問題なのではないでしょうか。

以前も似たようなことで悩み、実技の発展研究よりも思索が先行しがちな私は武術に向かない、資格がないと自覚して、観察者としてなら稽古を継続できるのではないか、観察者として全うしよう、完全理解を目指そうと思った経緯があります。

http://asnaillivesinashell.sblo.jp/article/77070533.html

そのことについて、研究者として取り組むのでなければ稽古はできないというのが先生のお答えであるならば、他の方を見習って実技での研究的姿勢というのを身につけるように努める、でなければ、もう教えていただけないということを受け入れます。

修証一等(修行と悟りは同一のもの)と先生は仰いました。今の自分にできるかぎりの事をしていい稽古を創ること。金曜日の護身術や太極拳でそれは実践していけると思います。