弟子のSです

武術の稽古日誌

待合室で思い出す

昨日のこと。かかりつけの病院の待合室で2時間ほど順番を待つ間、白洲正子河合隼雄の対談集『縁は異なもの』を読む。白洲正子のことはときどき師から聞いていたが、初めて本で読んでみて、これは本当にすごい、正しいことを言う人だと感じた。中にこのような言葉があった。

「憧憬や心酔は畢竟するところ何物も生みはしない」

病院の待ち時間は読書や考え事が進むから長くてもそんなに苦にならない。

思うに2年前、武術の稽古を始めたばかりの頃、師弟関係を医者と患者の関係になぞらえておられた師に「私は病んでいるかもしれませんが、先生の患者ではありません」と言ったことがあった。それは自分の中で確信だったので絶対に伝えなければならないと思った。師は私の言葉をわかってくださり、その後決して私をそのように扱われることはなかった。

それがどうだ。自分で言っておきながら、いつのまにか私はすっかり師の診断を仰ぐばかりの「患者」になり下がっている。いつからこんな腑抜けになっちゃったんだろう。つまらない。自分の今の有様はつまらない。

憧憬や心酔の対象の後を追うだけでは何にもならない。対象から私が何かを受け取るのでなければ。「憧憬や心酔は畢竟するところ何物も生みはしない」。自分でうすうす感じていたことに言葉を与えられたような気がした。ダメだ、いつまでもこんなんじゃ。

ただそこに「居る」という状態でまず安定すること。まず自分を支えられるだけの力をもつこと。

師の仰ることに100パーセント従うのと、師に判断を100パーセント委ねることは全然違う。自分の下すべき判断を師に仰ぐようなことは今後すまい。もし判断が間違っていれば師が正してくれるだろう(師だから)。蛇のように賢(さと)く、鳩のように素直な人に、俺はなる。

物事は最後には全てうまくいくという(これという根拠のない)勝算が私の強みだったはずなので、自分の強さを信じてやっていこうと思う。

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