弟子のSです

武術の稽古日誌

私の、私は、私が

師から譲り受けた黒田鉄山先生のビデオテープがあれこれ試しても再生できず、ついに、このブルーレイの時代にVHSビデオデッキの修理を頼むことに。ずっと気にしていたせいか鉄山先生と座り稽古する夢を見た。向かい合った先生のひじ内側、前腕部寄りの部分を親指で押さえ、皮や筋を引っぱることで上体を崩そうとしていた。押さえる場所によって、先生は少しだけこちら側に傾いてくれた。これがどの程度荒唐無稽な夢なのか、私にはわからない。

稽古は理屈抜きで楽しい。だがその前に今は考えることがある。ここを曖昧にしてきたから私はずっと堂々巡りを続けていて、稽古で立ち直ってもまたいずれ同じことでつまずくことになると思う。そして、苦しさから逃れるために、いつか決定的な間違いをしてしまいそうだ。自分にとって本当に大切なものを失う愚を犯したくないから、今やるべきことをやっている。

自分の内面と向き合って何が見えるかの説明を試みたい。どこから始めればいいだろう・・・

最近読んだ本によれば、「宗教」という言葉は字義通りには「自己の中心(宗)とする教え」の意なのだそうだ。なるほど、その意味において私にとって武術とはキリスト教仏教と同列のものである。それを宗教と呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。そして、その教えの偉大な体現者・指導者として釈迦やイエスを捉えるならば、弟子たる私が師をその二者と同列に語ったとしてもとくべつ不自然なことではないと考える。師は、教師だ。

さて私の学ぶ武術は指導者が生身の人間であるので、釈迦やイエスと違い関係が双方向性である。そこに対話ややりとりがあり、人間関係というものが生じ、ライブな感情が生じる。さらに、指導者自身が常に変化の途上にある。

双方向性であること。変化すること。それが師が存命であることの良さ・面白さである。

自分の内面を見つめてみると、修行がはかどるにせよ、滞るにせよ、ひとしくその「変化に接することによる感情の乱高下」の影響に負うところが大きいと気づく。いいことがあって張り切る、嫌なことがあって落ち込む。

しかしこのところ負の影響が目に余るというか、とりわけ私の場合は武術を始めたきっかけが「師への憧れ」「師のようになりたい」という、ひどく情緒的なものであったが故に、それが大きくマイナスに作用しているようだ。きっかけとしては悪くないかもしれないが、長く続ける上では「憧憬や心酔は畢竟するところ何物も生みはしない」(白洲正子) 。それは、そうした情緒や感情が容易に自己愛と結びついて、目の前の相手(師)と向き合うこと、そこから何かを得ることの障壁になるからだろう。

「○○であってほしい」「○○になりたい」と私が望むから、「○○でない」現実が苦しい。

「〜は○○だ」と私が決めているから、「〜が○○でない」現実に失望する。

これが「変化に接することによる感情の乱高下」の例である。それが武術を「宗教」と信頼する私の足を引っ張る。師を疲弊させる。ことは師に対してばかりにとどまらない。対他者、対世界、対現実・・お化けのような感情と自己愛のせいで、私の目にはきっと大変なバイアスがかかっているのだろう。それはとても深いところから来ているように思える。それを修正して出直すのでなければ先はないと感じる。

武術の神様はケチでしみったれで、すべてを差し出す者にしか本物をくれないんだって。

「私」というお化け、こいつを何とかしなければ。