弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳

受身。座取り。相手と対面して基本稽古。接触点では当たらずぶつからず、柔らかく相手に接する。

今日から新たにお稽古に加わった看護師の女性が、暴れる認知症の患者さんを相手にする機会があるとのことで「力に力でぶつからない」という考え方に大きな関心を示されていた。柔らかく接することが荒れた相手の心を和らげるんですね、とそういうところに感銘を受けて帰っていく、福祉関係の人は優しいな。さっそく明日からの仕事に役立てることだろう。

私はというとその接触点の背後に控えた凶暴な意図、山羊の左手でだまくらかしてオオカミの右手で圧倒する、みたいな清濁合わせ呑む部分が武術では好きなところだ。

後のほうで背後から自分を押さえる相手の手を取り上げて背負い投げるという稽古もした。相手の手が自分より高い位置にないと投げられないが、力の入れ方がまずいとぶつかってしまって思うように取り上げられない。その時どう対処するかといったら、相手の手が動かないなら自分が屈んで投げられる位置関係にしてやればよいのだった。

午前中に見た黒田鉄山先生のビデオの抜刀術で、束を押さえられても腰を後ろに引くことで刀は抜けるということを教えていた。背負い投げで相手が動かなければ自分が屈むのと同じ理屈だということに帰ってから気づく。

以下、考え事。

昨日の記事に書いた自己愛については、師に先日「あなたには他者という概念がない」と言われたことが考えるきっかけになった。

他者という概念がない=世界に自分しかいない。自分にとって重要なことは、他者にとって「どうでもいい」ことがわからない。武術は一個人の思いや感情などに価値をおかない。矢が飛んできたときに生死の結果を分けるのは、矢が飛んできてどう思うかではなく何をするかだからだ。自分の感情だけが唯一重要な現実である私には武術がない。そして、本当の自分もない。

私の身近にも唯我独尊な人がいる。母だ。母のことを考えたら、師が私にうんざりする気持ちがよくわかる。今まで申し訳ないことをしたとつくづく思う。「それはお母さんがそう思うだけのことでしょう」と、今まで何万回言っただろう。そして、いつから言うのをやめただろう。知るかよって思うよね。ましてや身内でもないのに。

私はある部分で師から遠ざからないといけない。愚かさからその「ある部分」を取り違えないようにと心から望んでいるが、私の状況分析はいつもひどく心許ない。