弟子のSです

武術の稽古日誌

受験参考書をひもとく

 仏教は、キリスト教の神(S注・絶対者である人智を越えた神)と同じ意味での仏(ほとけ)は存在しない。人間にとって超えがたい絶対的なものは、存在の法則のみである。だから存在法則に従うほかないが、存在法則はキリスト教の神と違って理解可能である。むしろ、存在法則を知らない時に苦があるのである。苦しみを脱して永遠の平安に達するためには、自己の努力によって、存在法則を認識し、それに従って生きる努力をしなければならない。(『シグマ・ベスト 解明倫理・社会』第4章 思想の源流)
太字はS。そうだったんだ・・・。おもしろい・・・。 苦の原因とされる「煩悩」というキーワードを持って自分の内面に降りていくと、心のからくりが見えて交通整理されていくようだ。 たとえば、昨日の記事中に引用した煩悩の例に「仮の実在への執着」というのがあるけど、私がつねづね師に指摘されている「師の偶像視」など、まさにこれだと思う。つまり、私の脳内の師と現実の師が異なるときに「〜ならいいのに」「〜なはずだ」「〜なのは嫌だ」と、脳内の師を優先して現実の師を見なかったことにする、脳内イメージに適合する見たい師だけを見るという、ご本人には大変失礼な心のはたらきが私の内面でなされるようなのです。師を批判する気持ちなど毛頭ないと本人は思っているから、それがわからない。 師も目にするブログにこんなことを書くのはとても勇気がいるが、おそらく私が気づくよりずっと先に師はこのことに気づいておられた。一事が万事こうだから何度も同じことを言わせていたのだ。稽古も組手も自己完結して、どこにも辿り着かない。 偶像化するから失望する。頭の中で妄想を捏ね回すのでなく、目の前にある人や現象や物と向き合うことです。 自らと法則のみを灯明とせよ、と仏陀は言ったという(なんと武術的な・・・)が、法則がわからないから煩悩があるのか、煩悩があるから法則がわからないのか・・。なまじ煩悩の発見に目覚めたら、あれも煩悩これも煩悩と、なんだか私は「歩く煩悩」のようだ。友がみな我よりえらく見ゆる日よ・・ほら、これも。 太極拳をやっていて、東洋思想について今まで深く知ろうとしなかったのはぬかっていたと思う。