弟子のSです

武術の稽古日誌

昨夜のお稽古

中野にて武術90分。

・両手を肩(胴)経由で連関させて動かす。一教、杖術への応用。

・体のうねりを使い、手の仕事を手や腕だけでなく全身でする。腕と体軸の回転との関係は、ラジオ体操の腕振りのように同時に動かすのと、デンデン太鼓のように体軸の回転にワンテンポ遅れて腕がついていく、ジャズの裏打ちのような動きとがある。それを組み合わせることで体軸の回転による連打ができるようになる。

・羽ばたきの要領とポンでもって、腕を柔かつ剛な弧にして攻撃をかわす。目を閉じて双推手。

・二教、小手返しを体のうねりを使って手先でなく体全体でかける。

・斜飛勢。

太極拳的な姿勢・動きの要素を身につける稽古だったと思うが、師の動きをすっかり真似ているつもりでも、鏡で確認すると自分はカドが全然とれていない。特にひじが曲がっている。硬いから動きが直線的になり、太極拳の特色である「ぬるぬる」した反発しにくい動きにならない。

目の前にある人や現象や物と向き合う、を実践すべく臨んだ稽古だったが「向き合う」とは必ずしも対象を具体的に「見る」ことではないと帰り道にRさんと話していて気づいた。師に言われて思い出した・・それは「観る」。その証拠に目を閉じて双推手しても相手を観ること、情報を得ることはできる(ex.聴勁)。願望や思い込みといったフィルタがかかっていると観る目はくもりがち・・・ああ〜〜〜。

稽古後に「ちょっと一杯」休憩。

過日のブログの記事において私が師をキリストや仏陀と並べて語った件について、師に「なんてことを書いてくれたのだ」「営業妨害」とさんざんに言われる。Rさんにもほがらかに狂信者呼ばわりされた。師は一読して、これでまた白桃会に人が来なくなると頭を抱えてしまったそうだ。真意が伝わらなくて悲しい。

人が何がしかの思想に価値を認めてそれを学び人生の糧とする。キリスト教仏教も武術もそうした「思想」で、キリストや仏陀や師は「それを教える教師」だという点で共通していること。私の伝えたかったことはそれ以上でも以下でもなくて、読み返してもそうとしか言ってないと思うんだけど・・・。

これじゃマホメットに悪いじゃないか的なことを師は仰るのだった。えー。