弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳

対抗した相手と力と力をぶつけてくっついている状態をつくる→ぶつかっている力をずらして崩す→双推手への応用。

双推手における攻めパターンの稽古。私が師と双推手をする際にやられるパターンはほぼ定型なので、それを覚えてしまいたい。

双推手では下図のように両手を合わせて向かい合っており

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このままでは何も起こりようがない。例えば私がもっとも頻繁にやられる「前の手を左手で払って右手で頭を打つ」ことがしたければ、どこかの時点で単推手に変化させ、払う左手をフリーにしてやらなければいけない。ということは、片手で相手の攻撃を防がなくてはならない。どうやればそうできるのだろう。太極拳の時間までそのことを考えていた。

太極拳では以下の三つを段階的に稽古した。 (※以下の記述は理解不足から正確さを欠くと師からご指摘がありましたので、コメントも併せてお読みいただければと思います)

1. 自分の中でのつながり。自身の中で、両手がつながって動く感じ、または反発する感じを得る。(師の「不随意な運動」という動画でご覧になれます)

2. それから相手とのつながり。接触点において力でぶつからず、意識の上でつながることで感知されずに相手を操作する。楼膝拗歩の右手で押す動作で練習した。踏ん張った相手を力で押すと足を一歩退いて耐えられてしまうが、接触点から相手の何かに「なじむ」感じで押していくと、ある時点で反発する、と判断するポイントがないため結果的に倒されてしまう、ということが起きる。「蛙をアンダンテでアルデンテ」というやつである。

3. さらに進んで、相手との「無線」でのつながり。物理的には離れている相手と意識の上でつながって操作する。これは少しオカルトに見えるかもしれませんが・・との前置きつき。例えば、突きが充分に当たる位置で相手と対向した場合、相手との間に手という障害物を置くだけで相手は突きにくくなる。指先が目を狙っていれば相手はさらに突きにくくなる。いわゆる心理戦というものだろうか。

テクニックで理解しようとしているSさんにはわからない、と言われる。

推手や組手で師と対峙して、私がもっとも強く感じるストレスは「正中線がとれない」こと。それを力で押し負けていると感じること。

それは、さきに図示した双推手から、相手に攻め入るためにaの形になりたいのだが実際はbの形になるということである。

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aでは正中線が対向しているので攻撃を受けることも、(可能性として)こちらから攻めることもできる。勝てはしなくとも互角である。しかし現実は常にbであって逆はない。

家に帰って鏡を見たら、口がへの字型になった不機嫌そうな女がいた。

ネットで双推手の動画をいくつか見、怖くなって心で少し泣く。双推手ってこれ・・稽古なんだよね? 首をとられてガチでぶつかって、歯を折りそうなのもあった。組手ではこれに蹴りが加わるのだ。普通に考えて無理だ。

救いのない気分でノートを見ていて思いついた。普通に(理屈で)考えていたら私には先がない。ならば、普通でないことこそ、私に必要なことなのではないか。必要だから、それに頼るしかないから、「普通でないこと」を師は教えようとされているのではないか。

「力でなかったら、aとbとの違いは何なんですか?」

「あなたは今日、何を聞いてたんですか。あなたが受け入れようとしない、あなたが嫌いなものです」

師にbの形をとらせるものは、物理的な力や理屈で説明できる技術もあるかもしれないが、それ以外のものもあるという。それは「気の持ちよう」「気迫」の「気」・プレッシャー・場の支配力、我を無くして道具そのものに、無機物になること・・・

私と対峙して、そうしたものを発動した状態がbであり、発動していない状態がaであると。

今の私にはXというかアンノウンというか、そういう言い方でしか表現できないが、師に説明されて、師の不動の正中線を不動たらしめている要因がわかり、進んでいく方向が見えたからよかった。