弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳

護身術は単推手の稽古と、そこからの技いろいろ。攻めてかける技と、押されて受けてかける技。

自分のひじをどう使うか、相手のひじをどう扱うかがポイントだと思って見た。相手が咄嗟に解くことのできない形にもっていくのは、技の理をわからないとできなくて、それは繊細というか緻密なことだ。技のかかっていく推移を手順でなくビジュアルで覚えるように言われる。そうしたい。

「こうですか?こうですか?」とかける相手でなく師ばかり見て、先週に続きまた注意された。

うまくいかないものだから、私も含めて皆、休憩と言われてもそのまま「ああでもないこうでもない」とやっている。「熱中から集中へ切り替えるために必要な時間なのだから、休めと言われたら休みなさい」と言われた。なるほどと納得して休む。深いアドバイスだったんだな。

あれもできない、これもできないというので師はやむなくシンプルな形のものを教えることになるが、シンプルなものほど繊細で難しいのでさらに双方苦労することになる。

そこで、型稽古の受けの作法。技がかかっていないのに倒れたり、かかっているのに耐えて倒れないことのないように。加えて、かける側が技を覚えられるように受けは誘導しなさいと言われる。つまり技を説明される際には、それがどういう技であるかを、かけ方ばかりでなく受ける側の目線でも理解するということだ。棒立ちの受けが倒れればかかった・倒れなければかからない、そういう目安でやっていると稽古のゴールが「倒す」になってしまい、技を覚えるというゴールに辿り着かないからである。

今日の格言「よい稽古はよい受けから」。かかるように誘導する。ヒントを与える。

こういうことを今まで考えずにやってこられたのは、どれだけ師や兄弟子の胸を借りてばかりいたかということだと思った。

太極拳では、套路の第一段を数人ずつ行い、それを師が見て講評するという時間があった。

去年の春頃からか、師の教え方がそれまでと変わって、10回ほどの講座中に套路三十七式を生徒ができるようにするよりも、太極拳の動きのエッセンスを伝えるという指導に移行したと思う。「順番は覚えようとしなくていい」と繰り返し生徒に話されるようになった。その反映として、今の教室には套路三十七式を覚えて自力でできる人は古いメンバー以外にいない。

全体の流れが見えなくて何だかわからない、という声もよく耳にするし、「套路は覚えた方がいいのか?本当に覚えなくていいものなのか?」は自分自身でもずっと考えてきたことだった。

今の私が思うのは、順番を覚えることは、講座の全編を使って講師が教えるべき再重要事項ではないこと。「套路は覚えた方がいいのか?本当に覚えなくていいものなのか?」については、迷ってる暇に覚えてしまえばいいと思う。動画も公開されているし、数日集中すれば覚えられることだ。でもって他の知識と同様、覚えたあとは間違いなく稽古がより面白くなる。先生の動きを真似る作業をスキップできることで、代わりに得られるものはとても大きいと思う。家で一人でできるようにならずにやめてしまうのは本当にもったいないことだ。

本気で覚えたくて覚えられずに苦労している人には、私でよかったら協力したいと思っているし、ここはむしろ私の出番なのかしらという気もして、人知れず落ち着かない気持ちでいます。