弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

中野CMBトレーニングセンターにて武術交流会。師を含め3人の先生に教わる。ふだんの稽古が90分なので、指導者3名で2時間はまたたく間。しかし金曜日の教室では師の言わんとすることがすぐ飲み込めるのに、交流会ではそれが難しく、クエスチョンマークを常に頭に載せたまま時が過ぎていった。「では、やってみてください」と言われて何をやってみればいいのかがわからない、というのは恐怖である。稽古で自分が何をしようとしているかが理解できているというのは、それが実際にできる・できないよりも重要だと思う。その理解度がその人の武術の到達度だと思う。

全体を通し「つながる」「コミュニケーション」「対話」といったテーマで稽古は進んでいった。

木村塾・木村先生。

胸をゆるめ、丹田に重心を落として立つ。相手に胸を押してもらい、普通に立つ時と力の感触がどう違うかを比較。重心を落とすと押された力をかかとで受けるようになり、普通に立った時のように接触点に抵抗が生まれない。相手とつながり、相手と力を「シェアして」立つ、みたいな感じになってくる。

接触点から力や抵抗やつながりといった情報を受け取る、そういった意味において自分がいかに「情報弱者」=鈍感であるかを今さらながらに悟った。使えない線量計みたいなものだ。稽古を重ねることで感度が上がると信じてやっていくしかない。

木村先生と単推手をして、私の単推手は、左手を接触点にする方がつながる(したがって安定する)ことを指摘された。意外だけど、言われてみると確かにそうだ。太極拳の単鞭の立ち方と相似だからか、地面とつながるのが強い方の右足だからか?

白桃会・佐山先生。

金曜日に教わった、技を稽古する際に受けがヒントを与え、かける側が技を覚えられるように誘導するやり方。

合気上げや肩と腰の二点での崩しを、一対一で稽古する脇に指導者がついて助言をもらう。姿勢のつながりの悪いところを木村先生にピンポイントで指摘され、そこが弛むと稽古相手によくなった、力みがとれたと言われる。自分がよくなった感じが自分でわからない。力を入れずに技がかかるからこれでいいんだな、と思う。

複数で手をつないだ端の人が技をかけ、ウェーブのように力を伝えていく稽古。うまくいくと増幅され、反対の端にいて吹っ飛ばされてしまう。つながりが悪いと途切れて何も起きない。勝つというのは相手を取り込むというかつながりに巻き込むというか、共同作業に乗せさせることで、敵を敵でなくするってこういう感じなんだろうなと思う。

精武練成会・浜島先生。

浜島先生は気功を教えておられ、東洋思想の「気」の概念を少しかじった私は今までになく明鏡止水の心境で臨んだ。

まず開脚して、感じる痛みと対話し開こうとしない足をなだめていくというのをやった。青天井に明るい浜島先生の体への話しかけを真似つつ自分の足をさすってやると、「仕方ないなあ、わかったよ、面白いからちょっと開いてあげてもいいよ」などの雰囲気(言葉でない)が体内に生まれ、まあいいか的な感じに体が弛んでいく・・これを細胞が喜ぶと表現すればいいのか。

対人稽古も同様のノリで進んでいった。相手の体に言葉を投げかけていく。「まあまあまあ」と。そして相手を乗っとる。浜島先生と双推手をしていた師が笑いながら「ダメだっ」とジャックされていた。そんなの初めて見た。なんだか怖い気がした。

自分のでも他者のでも、体の声を聴く、体と対話する。体を労ってやる、想ってやる。そしておそらく大切なのは、それを受け止められる体があること。受ける側の感受性が同時に問われているということ。それも意識を介さない、体の感受性だ。レセプターとして私はとても「かたくな」なつくりをしているらしい。いくら明鏡止水な意識をもって臨んでも、それはどうにもならないことだった。意識というもの自体が「毒汁」だからだ。自分でも考えすぎだなと思う。

稽古後に木村先生と話す。いろいろな武術を教わっていると、自分の中にすんなり流れ込んでいくものと、どうしても違和感のあるものとがある。すんなり受け取れるものは自分の中で課題にしていけるが、違和感を感じてしまうと課題すら見えなく、扱いがわからないと話した。木村先生はうーんと言葉を選びながら、好きなものを選び取っていけばいいと思うけれど、違和感で可能性に蓋をしてはいけないと思うし、そもそもSさんが今違和感を感じるものは、感じないものと本質的には同じものかもしれないですよね・・と仰った。

整理整頓して、分類してすっきりしたい、わかりたい・・。師にした「今日教わった中で一番黒田鉄山先生に近い考えの方はどなたですか?」という質問も、考えてみれば赤面ものの愚かさだ。

お前の欠点は、都合の良い説明、お前とお前の世界に合った説明を求めるところにある。わしが反対するのは、お前なりに辻褄を合わせようとすることだ。

「詰め込む努力は惜しまない」ともえ庵のおいしい鯛焼きを買って帰る。