弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

大塚にてマンツーマン30分+子供空手教室50分。

道(タオ)について。タオはルート、ライン。つなぐもの。タオに反することはうまくいかない。ぶつかる、というのはタオに反したことをするからだ。自分の中のタオは経路、自分と人とのタオは関係性、剣のタオは刃筋。

タオに従うこと。起勢と単推手とでそれを稽古する。

空手もその流れで、さからわずに相手を動かすことから始まる。それから型のおさらい、足技、組手、寝技、八極拳の突き技。

今日もMくん5歳は舌好調であった。「先生はブヨンブヨンなのにガチガチだ」。師の柔剛併せ持つ感じをうまく表現している。「帰る時の先生はうどん屋みたいだ」。作務衣・・。

男の子が強い男に憧れるのは当然の必然と言えよう、言葉の端々にリスペクトが感じられる。Mくんばかりでなく、師は人に与える求心力のいやに大きい人であって、師といるとそれを常に実感させられ(ここからが私の抱える問題なのだが)自分の冴えないことを否応なしに確認させられる。

私の組手は、うまくいかなかった。それなのにと言うか、だからと言うか、私には稽古相手にケガをさせ、自分もケガをする危なっかしさがつきまとっているらしい。タオに従わず、ぶつかってばかりいると言われる。

寝技の稽古で、私は眼鏡を外し、ハンデをつけるために両手を帯に挟んだ状態でMくんに臨むことになった。おぼつかない視界と動きの中で、床についた彼の指にひざを乗せてしまう。泣かせてしまった。師が来て、彼の痛がるところに当てていた私の手を払い除けた。骨には幸い異状がなかったようで、指も動くし、時間がたったら表情も落ち着いた。よかった・・。

あとから師に言われたんだけど、私はどこかで、Mくんを自分より下に見ていないかと。私の方が上で当然、勝てて当然と思っていないかと。しかし武術の世界ではMくんと私は兄弟弟子で、先に始めた彼は年齢がどうあろうが目上なのだそうだ。それはこの世界で師と私とが親子の関係(師父ー弟子)であるのと同じだという。それをどこかで「自分が上」と思っていませんかと。

稽古後に座学。

Pain is inevitable, suffering is optional.(苦は避けがたいが、それによって苦しむかどうかは別のことだ)

トリガーとしての苦(pain)が苦しみ(suffering)になるのは、私の場合には明らかなパターンがある、ということを師に聞いてもらう。話すなかで自分の思いが整理され、それは一言でまとめると「征服欲が満たされない時」だと悟る。私はピークハント志向が強い。ものすごく強い。劣等感も嫉妬もそこから生まれる。武術を始めてからこっち、つらいことばかりなのはそのせいだ。

苦の扱いには二通りある。「苦を避けるように環境を変える」か「苦で苦しまないように自分を変える」かだ。学校でのいじめを例にとればわかりやすいかもしれない。修行的態度とは後者であって、私は自分を変える挑戦をしているわけだ。敵は自分の中の征服欲である。

私の身内に渦巻く劣等感や嫉妬について延々と聞かされた師「めんどくせぇなあ・・」。

師とその法(教え)は苦の此岸から安楽の彼岸にわたる筏にたとえられる。渡り終えたら筏は捨てていくんだって。「後がつかえてるから早よ渡れ」的なことを今日言われた。あわてず急げ、急がば回れ

師「ウ○コが詰まって流れない時、水がたまらないうちに焦って流しても流れないでしょう。水が充分にたまってから流すから流れるんでしょう。急がば回れとはそういう事です」。

それからタオの話をもう少し詳しく伺って、今日で東洋思想の講義はおしまい。もうお腹いっぱいでしょう、と言われる。はい。どうもありがとうございました。師のお考えがよくわかって大変参考になりました。私の圧巻は何といっても初日の講義後の遊行(便利な言葉があるものだ)で訪れた東京カテドラル聖マリア大聖堂でした。あの体験は一生忘れないと思います。

帰り道に一人で考えていて、集中と熱中の違いがわかった。

同じがむしゃらでも、相手のことを見ながらするのが集中。自分しか見えていないのが熱中。

熱中は常にケガと隣り合わせだ。そして、熱中では勝てない。