弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古(座学編)

自分はこの入不二法門的なるものを、「東洋的」だと強調して東洋および西洋の人々に訴えたいのである。東洋人に対しては、自分の宝蔵に自覚せよといい、西洋人に対しては、二分性だけでは人生を尽くすわけにいかぬ、転一歩の飛躍が望ましいというのである。(鈴木大拙『東洋的な見方』)

「入不二」とは、対立・相対する二つのものは本来一つのものだ(不二)と知ること。つくづく思うに、知ると言ってもただ知ってるだけじゃダメで、心底わかるのでなければ生きる用に足りない。行き帰りの電車では本を読み、座学でも武術にまつわる東洋思想のエトセトラについてのお話を伺う。師の口から稽古との関連で説明されると「わかる」に近づけるように思う。

たとえば「修証一等」という言葉がある。「修(修行)」と「証(悟り)」は一つ、の意。昨日それに類する経験をした。

稽古で腕回しをする。準備運動でよくやる、伸ばした片腕を肩の付け根からぐるぐる回す、あれ。腕を腕の力でなく体を使って回す、すなわち正しく回すことを師のもとで続けていて、自分の内部に回している中心があることがわかった。丹田だ。丹田の自覚。プチ悟り。

腕回し(修)を繰り返すことが丹田の自覚(証)を導く。また、丹田の自覚(証)が腕回し(修)の質の変化を導く。ゲームになぞらえると、「経験値を上げる」と「レベルアップ」は同じこと、それが修証一等だという。修証が一等だからこそ「経験値を上げる」「ただやる」「何もしないを全身全霊でやる」・・というプロセスに価値がある。修とは証に対立する「悟っていない状態」ではなく、後に述べる「悟りの無がある状態」だからだ。正しい稽古には悟りが、証が「宝蔵」されている。

(それにしても、やっぱり東洋思想むずかしい・・・はあはあ、がんばるぞ。)

さて、「悟りの無がある状態」とは何か。

ここに水の入ったコップがあります。

cup_full.jpg

対して、ここに水の入っていないコップがあります。

cup_empty.jpg

これを西洋的には「コップは空(から)である」と言う。しかし東洋ではそうは言わない。「コップと、水の無(む)がある」と言うのだそうだ。コップは、水の無の場所。場所だから、水を満たすことができる。水もまた満たされるのに場所を、コップを必要とする。空のコップには水が、無というかたちで宝蔵されている。そして私は・・一つのコップである。

私と、武術の無がある。

私と、師の無がある。

私と、秩序の無がある。

私と、理解の無がある。

私と、救いの無がある。

そうした文脈において、師は「人間には無限の可能性がなくもない」と仰るのだと思う。水はどこかにあるのではない。「無」というかたちで、コップの中に、あなたの中に、私の中に既にあるのだ。感動していただけましたでしょうか。

私の西洋頭は考える・・では、稽古とは、祈りなのだろうか? 証よあらわれたまえ、という。

(付記・答えを言いますと稽古は祈りではありません。詳しくはコメント欄をどうぞ・・・泣)