弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

弟子をやめる・やめたくない以前に取り組み方を考え直すべきだという結論に達し、とりあえず一時休業しようと、その思いを伝えるべく道場に向かう。

師弟の関係は公的なものだという。それは技を授受するという盟約で結ばれた関係で、私的な情で結ばれた関係とは異なる。私にとっては今まで経験したことがない特殊な人間関係である。

いっぽう、人に師事することの大前提として師は「その技に惚れ込めること」と仰った。私は師と師の武術とに(武術あっての師なので、この二つは私にとって不可分)惚れ込んでいる。それは同性間でも生じうる愛情だと思うし、後ろ暗いものではないので、私はこうして日々世界の中心で師弟愛を叫んでいるわけだが、正直、自分には「公的に人に惚れ込む」というのがどういうことなのかわからない。人を好く、というのは私情でしかありえないんじゃないかと思う。そして人の抱く情であるかぎり、その対象にやさしくされたいとか人よりよく思われたいとか煩悩系の感情を抱くことは不可避。「私はあなたにとって対象ではない、私はあなた、不異なのだ」と言われたって、こちとら発展途上なんだ、わかるかそんなもん、という感じだ。

そして煩悩系の感情というのは、これは最高に後ろ暗く、かつ苦しいものである。

師がそう仰る以上「私情を挟まず惚れ込む」という関係が武術界(金剛界というハードボイルドな世界)には存在するのだ。だから、わたくしは公的に師に惚れ込んでおります、私情に基づくいかなる負の感情も生じておりません、問題ありません、と師にも自分にも言い張ってきた。・・・でも、17日の記事で暴かれた通り、それは欺瞞なのである。惚れ込む、とはどうしたって両刃の剣なのだ。師は仰ることが極端だから「あなたは私を無人島に閉じ込めて独占すれば満足なのですか」とか凄いことを言う。そんなこと・・でも本質的にはそういうことなのかな・・なにしろ、この取り組み方ではもう先がないなと思った。簡単にいえば「技の授受」「法を継ぐ」という公的な立場と私情との混同だ。つくづく自分が嫌になった。師から離れよう。少なくとも弟子を一時休業しよう、足を切り落とさなきゃ死ぬんだもの。これで自由になれる。

と、長い前振りで参加した稽古。新宿スポセンにて90分。

人を動かす/動かされない、ひじ関節で撥ねる/ひざ関節で撥ねる、当て身など。

稽古中の私は金剛界の人だ。余計な事はいっさい考えない。体は苦しいけど心が苦しくない。むしろすごく楽しい。祝日なので普段より人数も多く、プチ交流会みたいだった。

稽古後「で、なんなの?」と師に尋ねられた。稽古の高揚感が続いていて、咄嗟に問題が思い出せない。(なんだったっけな?)と、アンチョコを見ながら冒頭の件を話す。「休業してどうするの」「・・・(どうするんだったっけな?)」ダメだ。体を動かすと気分が変わってしまってダメだ。難しいことはどうでもよくなってしまう。師に尋ねられなければ、今日はまぁいいかと帰っていたかもしれなかった。

師はワインをがんがん飲みながら「弟子とか法を継ぐとか、そういう事にあまりこだわらないでただ続ければいいんじゃないの」と仰った。「Sさんは脳みその空き容量が一個しかないんだから、稽古をしたらいい気持ちと入れ替わっちゃうんでしょう。だったら稽古すりゃいいんだよ。人間は楽しみながら苦しめるようにはできてないんだよ」。

トイメンで語る師の坊主頭を眺めていたら、国語の教科書の写真で似たような人がいたな・・いや今はそれどころではない・・と思いつつ「先生って・・宮沢賢治みたいですね」と呟くと、師はおもむろに横を向いて「正岡子規」と言った。私がよろこぶと続けて夏目漱石と芥川もやってくれた。師にはかなわないと思った。

何かが変わったのか、何も変わっていないのかわからないが、師に対して含むところがなくなり、すがすがしく家路につく。

負の感情、煩悩に襲われてつらい時はそれを放置してただ耐えるのでなく、また逃げようとするのでもなく、乗り越える稽古をしろと言われた。詳細は稿を改めて。本とパソコンに向かう時間を減らそうと思っているので、今後やや更新頻度が落ちるかもです。