弟子のSです

武術の稽古日誌

大事なことは言葉では・・

虫刺されのマブタはその後、休日診療のお医者でステロイド軟膏を処方される。外出もままならぬ午後をブログを書いて過ごしていたら、最後の最後で保存し忘れるというトホホの上塗り・・・。それは師の最新の記事についての感想であった。術理は言葉では受け取れない、みたいな内容。逃がした魚は大きく、失われた文章は名文である。 がんばれ私! 運動だー! 先日、おそるおそる師に「世の中には研究的でないタイプの人間もいると思うんです。自分は恐らくそうじゃないかと思います。そういう人間ならではの武術というものが、あるんじゃないでしょうか」と言ってみたところ、師は私が研究者タイプでないのはとうに気づいておられたといい「Sさんの扱いについては私も考えていました・・」と仰った。 そして、それならそれで今までとは違う取り組み方をしてもらう、というので出された夏休みの宿題は「腕バランスを足を伸ばしてやる」という、なんというか、脳みその出番のごく少ないものだった。 それをやる。手をグーではまだだけど、とりあえず、パーならできるようになったよ。 balance1.jpg 足を曲げる(下図)のに比べて、だいぶ手の位置は後方。ひじはいずれの場合も丹田に。 balance2.jpg 師は足を伸ばすとき、背筋を使ってかなり体を上方に反らせてバランスしていたように記憶するが、私は腕が長いのを利用し、手をより後方に突くことでバランスをとる。研究者ではないかもだけど、工夫なら私もします。 師の記事には、佐川幸義先生いうところの透明な力・合気といったものは「現象」であり、その現象を起こすことは特別な力や鍛錬を必要とするものではない、とあった。 武術が力に頼むのでなく現象を操る技術であることは、フィジカルの脆弱な私の希望の光だ。 冒頭に書いた術理についてだが、たとえば相手を押すのに接触点で相手とぶつかるなとたびたび言われるけれど、私が疑問に思うのは、それでは、ぶつからずに相手を圧倒する・受け手に力と感じさせる「現象」のおおもと、駆動部はどこにあるのかということだ。それを尋ねると師はいつも「わからない」と仰る。しかし師にはできておられるのだから「わからない」ことはないはずで、正確には「言葉では説明できない」のだと思う。わかるまではわからないこと。 >佐川氏自身が、はじめて武田惣角の技を受けた後、徹夜で一晩中、父親と合気挙げを研究した結果、合気の原理に気付いた、ということ、そして、父親もそれで少し出来るようになった・・・ 楽しそう・・・。研究相手のお父さんが少しできるようになった、というのがいいなあ。