今日のお稽古
護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。
2時から6時まで稽古する瀬尾さんの出現につられて金曜日の運動量が半端ないことになり、帰宅し夕食の仕度をしたらもう体がうんともすんとも。しかしこれが望んでいた稽古だと思う。一日を通して共通する要素をどの時間にも何かしら師が盛り込んでくださるので、よい反復練習ができる。私は見たものを覚えるのが不得手で、技も何度も見せてもらってもすんなりとは身につかないのだ。瀬尾さんからは個々の技は自分で調べて身につけるという姿勢を学ぶ。見習う。
今日のテーマの一つは「受容」。力や勢いで向かってくる相手に対抗せず、したいようにさせる。それは「やられっぱなし」とは異なる。一人相撲をとらせる感じだという。私のイメージは、キツネリスが暴れるにまかせて指を噛ませるナウシカ・・。大事なのは愛・・。度量を試される時だが、それができなければ捨己従人などできようはずもない。
他にもいくつか共通する術理を持つ技を稽古したが、私のよくないところは、
・個別の技の手順にこだわり、技の本質とか別の技との関連づけ等が考えられない
・教わった内容に気がかりな点があるとそれを考え続け、目の前の稽古が疎かになる
・その場その場の論理的整合性にこだわり、白黒をつけずにいられない
例えば太極拳の時間に、正面突きを息を吸って受ける、というのを教わった。正確には「受ける」というより、息を吸うことでみぞおちを凹ませて「かわす」のだが、息を吸って突きを受ける稽古をしながら、なんだか前に教わったこととちがうなあ、打撃って息を吐いて、打たれる箇所を膨らませて受けるんじゃなかったっけ・・?ということを考え出したら、もう頭が「引っ込める」か「膨らませる」かで一杯になり、それを片付けないうちは先に進めない感じになるのだった。
実際には膨らませるも何も、私の薄っぺらい胴体など強打を受けたらそれまでなのだから、自分にはかわすという一択しかないとわかっている。私は理屈の整合性にこだわっているにすぎない。
すっきりしたくて師に問うと「そうであるとも言えるしそうでないとも言える」「どちらも正しい」といった、曖昧な答えが返ってくる。「太極拳はイズムのないイズムです」。
打撃というイズム(例・空手)を封じるのが「袖口を掴む」。袖口を掴むというイズム(例・柔道)を封じるのが「掴まれる前に殴る」・・。イズムには対抗するイズムが際限なくついてまわる。太極拳はイズムを固定しない。何物でもないから、何物にでもなれる。
師の仰る内容については師のブログの記事に詳細があります。シリーズ「太極拳と合気柔術」で併せてお読みいただくのもよろしいかと存じます。