自由の奴隷なのだ
I see my light come shinin' 私の光が輝きながら近づいてくるのが見える
From the west down to the east 西から東へと
Any day now, any day now まもなく もうまもなく
I shall be released 私は解放されるだろう
『アイ・シャル・ビー・リリースト』。ボブ・ディランのこの歌が長く歌い継がれるのは、私も含め「リリースされていない人」、閉塞感を感じる人間が世に多くいることの証左だろう。既にリリースされてる人、たとえば師なんかは、これを聴いても何の感興も起こさないはずだ。
西洋の 'freedom' 'liberty' は本来「解放」の意であり、束縛や制約といった対立概念なしには語れない。明治時代にたまたま「自由」という訳語があてられたが、たとえば鈴木大拙先生によると、東洋で自由といえば存在がそれ自身の本性に従うことであり、無条件で絶対のもの。解放もなにも、束縛という対立概念をこの語ははなから想定していないのだという。
自由になるとは、自由であることが「わかる」こと。それが「悟る」ということ。
束縛や制約がないと自由が感じられないなんて貧しいし、自由っつうものを取り違えてる気もする。私には、よくわからない。束縛ーリリース、は快感原則には違いないが、自由とはやっとこ得て快哉を叫ぶようなものではなく、たぶん、もっと空気に近いものだ。所与で、必然で、完全な。私はもう持ってるらしいんだ。それがわからないうちは、どうすればいいのかなあ。
Fake it until you make it(できるまでは、できるふりをしろ).