弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

腕の内旋・外旋によって生じるタオを意識し技につなげる稽古。

人の体は筒状のパーツがつながってできているからだと思うが、噛み合った歯車のようにあるパーツが一方向に回ると連動して他のパーツも回る。垂らした両腕を外旋すれば胸が張り(=体が開き)、内旋すれば猫背になる(=体が閉じる)といった案配である。どのように連動するかは腕と胴との位置関係によって変化する。たとえば両手を水平に伸ばして片手を外旋、片手を内旋させると胴は外旋させた方向に回るであろう。

五指の張りも、(中指を除いては)内旋・外旋のうねりを指先から生じさせていることだ。そう思って眺めると手指の造形の神秘に打たれる(稽古中に打たれている場合ではないのですが)。手からの入力は脳のすごーく広い領域に投射されると保健体育でも習ったことがあります。あと唇だったかな。

師の記事にもあるように、白桃会では手の働きを重視する。套路の雲手などで味わう「足が手をリードし、手が足をリードする」感覚というのは、ひとたび身を委せると麻薬的というか、とても気持ちのいいものである。

いい気持ちはさておき、内旋と外旋。太極拳の時間には内旋・外旋により体が開く感じと閉じる感じを意識しながら、套路と用法を稽古した。手足のジョイントである肩と鼠径部が体の開閉に大きく関わっていることがわかる。

稽古後の座学で、感情の扱いについて、とてもいい言葉を教わった。それは「月影」という。

むら雲が月を隠していても、いつもそこに月はある。それだけの言葉だ。「明けない夜はない」と一見似ているようだが、よきものは訪れるものでなく、既にあるものだというところが私には新機軸。感情のゆらぎ(月を隠す雲ですね)を忌み嫌って、ことさらに取り除けようとあがくのは無駄だし必要のないこと。いつか晴れるしいつかまた曇る。放っておけばいいのだ。

雲が出たと大騒ぎしていちいち人を煩わせるなという、師からの言外のメッセージをひしひしと感じた。

自立へのステップ。ダメな順に。

問題箇所を師に指摘されても、拒否する、異議を唱える

問題箇所を師に指摘されて、ハイとうなずく

問題箇所を師に指摘されて、結果を出すために具体的な修正を加えていく

問題箇所に自分で気づき、結果を出すために具体的な修正を加えていく

結果を出すためのヒントは既に師から溢れるほど与えられているという。そこから見つけ出すこと。