弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

巣鴨にて座学20分+幼児空手50分。

座学は「武術のレベルとは何か?」という話。それは認識している領域の大きさであり、レベルが上がるにつれ認識されていなかったもの、それまで見えていなかったものが見えるようになる。一束のわらしべ、壁の出っぱりに意味を与えること。

また人間のキャパシティというものは一定で変わらないので、詰め込む情報はどんどん簡略化しないと重くなったり遅くなったり溢れてしまう。その意味で、技とは技の理を考えさせる公案である。十の情報から一を抽出し、一によって十が同時に動くようにすることだ。一の理だけがあればよい。だから師は手荷物が少ないし、持っていてもすぐ落としちゃうんだな。

手指から手首をひねることで全身に影響が及ぶこと。一によって十が、手の挙動がそのまま全身の挙動になること。そういう稽古を今日はした。認識されていなかった体のつながりを発見する。

久しぶりに会ったMくん5歳は今日はだるんだるんで、何かと床でスライム化しがちなところをどんどん稽古相手になってもらう。受けと払い、小手返し、二教。

このところ稽古で何人も子供を見る機会がある。座学の話と関連するようにも思うが、雑多な情報が詰め込まれる以前の子供を見ていると、何であれ個性とは本来よきものであるのだなぁという感慨を抱く。端的に子供はかわいい。おもしろい。

師が仰るには、私は頭がお花畑だから、世の中に救いがたい邪悪な人間が存在するということを知らない、と。先生は邪悪さで言ったらどの位なんですか?と尋ねると、自分は2くらいだと仰る。5段階評価で??と訝しんだが、邪悪さMAXというのは段階付け不可というか、それはもう無限なのだそうだ。そういう悪意を知らずにきたでしょう、と指摘されると返す言葉がない。

木村政彦という人とその指導者のエピソードを最近師の口からよく聞く。wikiで見ても師・牛島辰熊の風貌が只事でなく恐ろしいことしか今はわからないが、その師弟関係から学ぶべきことがあるのだと思って注意している。